梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・17

《十 言語の社会性》
 私は、言語を個人の外に存在し、個人に対し拘束力を持つ社会的事実であるとする考えに異議を述べてきたが、言語が各個人の任意によって変更することが許されないという事実や、集団の言語習慣に違背する時には嘲笑されるというような事実は、どのように説明されるべきであるか。
 この問題に答えるためには、最初に、言語表現の目的について考える必要がある。「帽子をとって下さい」という言語表現は、帽子を自分の所に持ってこさせる手段であり、「悲しゅうございます」というのは、相手に自分と同様な感情を起こさせて共感を求めるためである。旅行をするのは、親戚の危篤に駆けつけるためであり、夜中人家に忍び込むのは財物を盗むためである。これらの行為は、目的意識に対しては、手続き、手順、道具の関係になっている。言語の目的は、以上の場合と同様には考えられない。「ああ寒い」と独語したり、「水が飲みたい」のように、表現せずにはいられないというために言語が成立する場合がある。言語の目的は、第一次的には、ある自己の欲求を満足させたり、人に要求したりするために使用されるよりも前に、自己の内なる思想内容を外に表すことであり、その実現が言語であるということができる。絵画、音楽、舞踊においては、自己の内なる感情や思想を外に表すことによってそれらが実現する。ある目的のために絵が描かれたり、音楽が作曲されることは考えられるとしても、それが絵画となり、音楽となるためには、目的そのものは何の関係もないことである。絵画や音楽はそれ自身固有の目的を持っている。言語においても同様である。
 「言語」(ラング)を社会的媒体であるとする考え方は、「言語」(ラング)に個人的創造を許さず、外部的拘束力を認めるという点から、仮説的に予想することは許されても、具体的な言語の観察からは認めることができない。  言語の目的は、内を外にし、主体を表現するが、表現ということはその反面、聞き手に理解されるということを含んでいる。それは言語が他の芸術的表現と著しく相違する点であり、ある場合には、表現意識を犠牲にしても了解の目的を達成しようとすることが強い。了解を考慮するということは、場面について考慮し、主体が場面に融和しようとする態度である。場面に対する考慮、場面への融和は、造形的表現において著しい(一つの絵画を置かれるべき寺院の構造に融和させる)が、その外に、人の死を悼む場面に悲愴な曲を演奏するということも場面への融和であるが、そのような場面的制約は、言語においても同様である。言語においては、聞き手の了解できる表現をすることが、場面への融和として考えられる。小児に対して「イラッチャイ」「イクチュ」などと話しかけるのは、聞き手の了解を目的とした場面への融和だと考えられる。母が子に対して自分自らを「お母さん」という敬語的な表現をするのも、子どもの世界に対する場面的融和を意味している。  言語においては、しばしば素材の的確な表現を捨てても場面に合致した表現をとろうとすることがある。言語の不可欠な存在条件である場面に対する主体の顧慮を考えることは、言語の真相を把握する所以であり、言語の社会性を明かにする足場である。  聞き手並びに場面一般に対する顧慮から、方言を捨てて標準語に準拠することも行われている。文法に従うということも同様である。
 また、言語においては、聞き手が勝手に自己流に話しての言語を理解することも許されない。言語においては、言語を通して話し手の思想内容を理解するということが重要であるからである。
 このようにして、言語の授受は、甲乙の間に必然的に言語の平衡運動をもたらし、同一事物に対しては同一音声で表現し、同一音声に対しては同一事物を了解するという習慣を成立させるのである。
 甲乙丙・・・に同一習慣が成立したことは、必ずしも甲乙丙・・・各個人の間に「言語」(ラング)という実体が成立したことを意味しない。また、言語において認められる拘束力は、我々に外在する「言語」(ラング)ならびにその法則にあるのではなく、言語表現を制約する主体的な表現目的、了解目的にあるのである。我々が他人の了解を求めようとする意識がなければ、あるいは他人を了解しようとする意識がなければ、我々の間に共通した言語習慣が成立することはあり得ない。
 万人に同一言語過程が成立するということは、本来言語主体に要因があるのだが、これを規定するものは、人間の社会生活である。地域的な割拠、職業的な差別、階級的な対立によって、種々な通語に分けられる。それらを言語の社会性ということができる。
 言語が社会的に制約を受けるということは、言語の性格の一面であるが、これを社会的事実の典型である法律と同様に考え、言語主体と切り離して、社会の言語というものを実体的存在として考えることはできない。ある社会には、その社会の成員にこれを強制する言語が存在するからといって、男子が女子に向かって語る場合に、女子の言語を使わなければならないということはない。学生が長上に対して学生同志の言語を用いることも許されない。言語の社会性ということは、その社会に存在する言語を考えることではなく、もっと主体的な動的な言語事実を考えなくてはならない。社会というものを、言語主体の身分として、対人的関係として考えなくてはならない。女子の言語は、女子の社会で使用される言語と考えるよりも、女子としての身分立場を表現するものと見るべきである。学生が長上に対して学生仲間の言語を使用することが許されないのは、その時学生は学生としてではなく、子弟として、後輩としての立場の規定を受けるからである。兵隊の言語といっても、兵隊の社会に固定した言語があるわけではなく、兵隊としての身分の表現として使用されるものがあるのである。また、ある社会にある忌詞、隠語も、本質的にはその社会に存在する言語として意味があるのではなく、その社会の成員が、その特殊な主体的立場から、言語の場面に制約されて、直接的な表現を避けたり、他人に聞かれまいとする表現目的の所産であり、それらは忌む語、隠す語であるところに本質があるのである。
 このように、言語の社会性ということは、特殊な社会層や階級層に存在している言語ではなく、場面や素材に対する主体の身分的階級的意識の表現であると見るのが至当であり、従って言語の社会性の観察も、主体的立場にその根拠を求めることができるのである。


【感想】
  ここでも著者は「言語を個人の外に存在し、個人に対し拘束力を持つ社会的事実であるとする」言語構成観に対する異議を述べている。
 言語は、法律と同様、その社会に存在して個人を拘束していると考えられがちだが、言語表現の目的は、一次的には「自己の内なる思想内容を外に表すこと」であり、もし、その表現が制約を受けるとすれば、主体(話し手)が聞き手の了解を得ようとして、場面への顧慮、場面への融和を図るためである、という説明が興味深かった。
 「言語においては、しばしば素材の的確な表現を捨てても場面に合致した表現をとろうとすることがある。言語の不可欠な存在条件である場面に対する主体の顧慮を考えることは、言語の真相を把握する所以であり、言語の社会性を明かにする足場である」ということを踏まえて、「万人に同一言語過程が成立するということは、本来言語主体に要因があるのだが、これを規定するものは、人間の社会生活である。地域的な割拠、職業的な差別、階級的な対立によって、種々な通語に分けられる。それらを言語の社会性ということができる」と述べ、「言語の社会性ということは、特殊な社会層や階級層に存在している言語ではなく、場面や素材に対する主体の身分的階級的意識の表現であると見るのが至当であり、従って言語の社会性の観察も、主体的立場にその根拠を求めることができるのである」と結んでいる。要するに、言語主体(話し手)は、社会生活に規定されており、様々な言語を使っている。そのことが言語の社会性であり、場面や素材に対する主体の身分的階級的意識の表現そのものであるということである。
 「言葉の発達が遅れている」「会話が続かない」と心配している親は少なくない。その多くは「子どもの能力に欠陥がある」と考えているようだが、本当にそうなのだろうか。「言語において認められる拘束力は、我々に外在する「言語」(ラング)ならびにその法則にあるのではなく、言語表現を制約する主体的な表現目的、了解目的にあるのである。我々が他人の了解を求めようとする意識がなければ、あるいは他人を了解しようとする意識がなければ、我々の間に共通した言語習慣が成立することはあり得ない」という著者の論述に従えば、①親に子どもの了解を求めようとする意識があるか(子どもの了解可能な言語(音声)で語りかけているか、②子どもに親を了解しようとする意識があるか(親の語りかけを傾聴しようとしているか)、また逆に、①子どもは「自己の内なる思想内容を外に表」しているか(泣いたり、叫んだり、笑ったり、ぐずったりして自分の気持ちを十分に表しているか)、②親は子どもの表現過程に寄り添って、了解しようとしているか(子どもの言動の意図、意味を理解しているか)を観察することが重要である。
 また、著者は、話し手と聞き手の間に「同一事物に対しては同一音声、同一音声に対して同一事物を了解する」《習慣》が成立する、と述べていることも興味深い。言語は話し手だけでは成立しない。つねに聞き手を必要としている。だとすれば、「言葉の発達が遅れている」「会話が成立しない」という問題は、話し手、聞き手(親と子)の双方が引き受けなければならないということになる。さらに、それは《習慣》の問題であり、通常、考えられているような「学習」の問題ではないのだろうか。いずれにせよ、習慣化するためには「繰り返し」が必要であり、それはどのようにして具体化・実現するのだろうか。
そうした問題意識を持って、先を読み進めたい。(2017.9.17)