梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・16

 ソシュールからバイイへの展開は、新しい見地をもたらした。「言語活動」(ランガージュ)を「言語」の運用と考え、その運用を通して話し手の生命力が表現されるという見地から、これを研究する文体論は、言語の美学的研究であるとされた。小林英夫氏は次のように説明している。
◎我々の考える言語美学的作業はむしろ好んで流露に眼を向け、流露の具体的実証的調査に基づいて、作者の性格を突き止めようとするにある。(「国語教育講座・言語美学」)
*流露:作者の意図を超え、意図の背後にあって無意識に作者を示してしまう働き、作者の気持ちや考え。
◎文体論または言語美学というものは、骨相学、手蹟学とともに性格学の一つの方法、部門と考えることができよう。(「前に同じ」)
 小林氏の説明によれば、文体論は言語美学と同じであり、「言語」(ラング)の運用を通して話し手を知ることであるとされた。このような文体論研究が言語美学といわれる理由がどこにあるか、それが妥当であるかを考察する。
 文学・芸術の美学的考察は、文学・芸術を通してではなく、文学・芸術それ自体を一つの全体として研究することによってはじめて可能になる。言語の美学的研究も、言語全体を考察の対象としなければならない。芸術は美であることによって芸術たりうるが、言語は、言語として存在するために、必ずしも美を必要としない。言語美は、言語の一つの属性に過ぎない。言語の美の本質的なものは、言語的体験に伴う美的快感である。それは言語を表現し理解する際に持つ、言語に対する意識である。我々は、ある言語を価値ありと考えると同様に、ある言語を美とするのである。言語美学の出発点は、我々がどのような言語を美として表現し、美として理解するかを考えることでなければならない。
 我々は、ある語を美しい言葉と感じ、猥雑な言葉と感じる。これらの事実は何に基づいているのだろうか。それは、言語過程自体を対象として行われる。もし言語美学が成立するとすれば、話者の美的規範の意識の探究でなければならない。言語美学は、一方に美的鑑賞の理論の研究を主とする形而上学であると同時に、鑑賞の根拠となる言語の過程的構造の実証的研究、言語の科学的研究自体の中に足場を見出さなければならない。
 言語主体において、美意識が成立するためには、美の具現者が一つの統一体であることが必要である。言語の美は主体的行為の中に成立するものであり、言語過程の種々な構造形式による心理的生理的物理的の段階によって、美的なものとそうでないものが現れてくるのである。それらの具体的な事実については、各論第六章にゆずり、ここでは、言語美学の対象は言語が過程的構造、主体的な表現行為自体にあるというだけに止める。
 言語による理解の問題に関連して、思想と言語との関係について一言しておきたい。
 我々は、皮肉な言い方で馬鹿な行為をさして「お利口なことです」といったり「人がいい」といったりすることがある。それを「真に受ける」とその内容を理解したことにはならない。これらの事実を明らかにするためには、言語における思想とはどのようなものかを明らかにしなければならない。言語によって表現されるものは、素材の模写ではなく、素材に対する思考過程である。だから、言語は客観的真実だけを表現するとは限らない。言語の表現するものは、客観的事実そのままではなく、一度主体を濾過して思考されたものの表現であること、素材に対する思考の仕方そのものの表現であるということが、言語の理解を考える上で重要である。従って、我々は単に表現された素材を理解するだけでなく、素材がどのようにして思考されたかという過程を理解しなければならない。言語が概念の表現であるということは、主体の素材に対する概念作用の表現を意味するのであり、言語が事実そのままの模写でないことを示す。ここに、言語を通して事物そのものを知解するときの困難が横たわっているのである。
 「三角形」(A)と「三辺によって囲まれた図形」(B)という二つの表現は、客観的に事物に即していえば、同一事物であって区別することはできない。しかしこの(A)と(B)とは、これを思考過程から見れば著しく相違する。(A)は事物を統一体として求心的に把握しているのに対して、(B)は統一体を分析して遠心的に表現している。(B)の思想内容は、三角形そのものではなく「三辺によって云々」の素材に対して分析された思考過程であるといわなければならない。ここに語としての性質上の相違が認められるのである。
 忌詞、隠語、皮肉というようなものも、音声によって、直接にある事物を理解させずに、他の概念を通し、間接的に事物を理解させようとするところに、それらの語の本質を見出すことができるのである。それは表現過程であり、思考過程であり、語としての過程的構造形式の相違に帰着するのである。言語に対する美的鑑賞ということも、これらの思考過程の反省、体験によって可能となるのである。


【感想】
 ここでは、ソシュール言語学の発展であるバイイの文体論(美学的研究)に触れて、著者の「言語の美」に関する一端が述べられている。「言語は、言語として存在するために、必ずしも美を必要としない。言語美は言語の一つの属性に過ぎない」としながら、「語の美は、主体的行為中の中に成立するものであって、言語過程の種々な構造形式による心理的生理的物理的の段階によって、そこに美的なものとそうでないものとが現れてくる」と述べるに止まっている。具体的な事実について後述するということなので、その機会(各論第六章)を待つことにする。
 また著者は、言語による理解の問題に関連して、思想と言語との関連について一言している。その中では、言語によって表現されるものは、素材の模写ではなく、素材に対する思考過程である、という指摘が重要であると思った。言語が概念を表現する時、主体の素材に対する概念作用が表現されているのであり、言語が事物そのままを模写することではないということである。三角形を表現する時、「三角形」ということもあり「三辺に囲まれた図形」ということもある。表現されているものは同一事物だが、前者は「事物を統一体として求心的に把握している」のに対して、後者は「統一体を分析して遠心的に表現している」。それは主体の思考過程が異なるからである、という説明はたいへんわかりやすく、大いに参考になった。(2017.9.16)