梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・15

《九 言語による理解と言語の鑑賞》
 言語過程説においては、理解は表現と同時に言語の本質に属することである。我々の具体的言語は、表現し、理解する主体的行為によって成立するからである。
 ソシュール言語学では、「言語」(ラング)が「言語活動」(ランガージュ)において運用される時、「言語」(ラング)はその意味が限定されるという。聞き手は、そのように限定された「言語」(ラング)を受容することによって、特定の個物を認識理解できる、というのが(ソシュール学の)「理解」に対する説明である。
 例えば、一物理学者が「地球は回る」(A)といったとする。それは一般的な命題であって、概念以外に何ものも表現しない。ところが、ガリレオが裁判官の前に立って、情熱と確信に燃えて「地球は回る」(B)といったとする。(B)の場合「地球」「回る」等の語は(A)の場合の語より限定されていると考える。しかし、この説明は事実に合致するだろうか。ガレレオにおいては「地球」も「回る」も特殊の表象であっただろうが、これを言語に表現するには、物理学者の一般的命題の表現と同様、非限定的に、概念的に表現せざるを得ない。私が何らの知識もなく(B)の表現を受け取るならば、それは(A)と何ら異なるものでないことは明らかである。(B)の場合の意味が、特殊の個物に限定されていると考えるのは、文脈において、あるいは他の知識で、話し手の立場を聞き手が補足して考えるからである。「言語」(ラング)が運用されたとき、聞き手が受容できるものは、単に音声あるいは文字であって、限定された「言語」(ラング)ではない。聞き手は彼自らの主体的な連合作用によって、これをある特定事物に結合して理解するに過ぎないのだから、「言語」(ラング)が特定個物に限定されているということは、聞き手の理解にとっては無意味なことである。
 従って、言語過程説では《一切の言語的表現は、具体的個別的な素材を、非限定的に一般的に表現することである》ということになる。もし「言語」(ラング)が運用された時に限定されるのであれば、言語における限定的技巧、修飾語による語の装定、その他一切の描写は無用の長物でなければならない。「言語」(ラング)が「言」(パロル)において限定されると考えるのは、「言語」(ラング)における意味と音声を構成的に見ることによって生じる誤りである。あるいは「言」(パロル)を「言語」(ラング)の実現と見る言語道具観によって生じる誤りである。このことを、さらに実例に即して述べる。
 私が今、机の上に一冊の特定の本があることを表そうとして、「机の上に本がある」という。この「本」という語が、一冊の特定の本に用いられたと考えるのは、ソシュール的考えである。しかし、事実はそうではない。話者は目前の一具体的素材を、まず「本」という概念で把握する。次にこの概念に連合する「ホン」という音声で表出する。この過程は、明らかに、限定されたものを、非限定的に表出することであり、特定のものを一般的に表現することである。従って、聴者の受け取るものは、音声を通しての一般的な本の概念である。本の具体性を決めるのはこの「本」という語それ自身にはない。すなわち、「本」は限定的に使われたのではなく、一般化の表現である。
 同じ事実を話者が「机の上にものがある」といったとする。「もの」という語が、特定の本に限定されたと見るべきであろうか。むしろ、特定の本が、話者においては「本」として概念されず、さらに広い概念「もの」として考えられ、それが言語として表出されたと考えなければならない。便所を「御不浄」という語で表した当初は、直接に表現することを嫌って、別の概念で把握し、音声で表現したのだろう。「不浄」という語が「言」(パロル)において便所の意味に限定されたと見ることは全く当たらない。すべての忌詞は、限定されたものを非限定的に表現することを、誇張して意識的に行ったものである。そこに、直接に事物を指示することを避けようとする忌詞としての生命があり、話者の心理もとらえることができるのである。平安朝女流文学者の表現法にそのような事実の著しい例が見られるが、特定的なものを一般化的表現していると理解することによって、平安朝文学の精神とも合致したものを見出すことができるのである。
 ソシュールは「言語」(ラング)の運用を問題にしているが、私は言語(心的過程)を通して表現される過程、言語表現自体を問題にする。理解の側からいえば、ソシュールは、限定された意味を持った「言語」(ラング)の受け渡しによって理解が成立すると考える。言語過程説においては、まず聞き手は音声を受け取り、これを連合の習慣によってある概念に結合し、さらにこれを文脈や立場に従って、ある特定個物に結びつけて理解が成立するのである。話者と聴者の間には、つねに共通的な一般的なものが必要とされ、理解が成立する必須の条件は、概念過程を経過して表現されるということである。
 ソシュール説の発展であるバイイの文体論の趣旨は「一言語が使いこなす表現手段を研究すること」(「言語学方法論」小林英夫氏)であり、それは「言語」(ラング)の使用に関することであるが、言語学の本質的領域には属さない。私は、主体的な言語表現および理解を言語の中心問題に据えようとする。それが、言語の具体的、本質的な事実だと考えられるからである。


【感想】
 ここでは、言語による「理解」とはどのようなものかについて、ソシュール言語学と言語過程説を対比しながら述べられている。いうまでもなく「理解」するのは、聞き手であり読み手である。
 著者は「言語過程説においては、理解は表現と同時に言語の本質に属することである。我々の具体的言語は、表現し、理解する主体的行為によって成立するからである。」としながら「ソシュール言語学では、「言語」(ラング)が「言語活動」(ランガージュ)において運用される時、「言語」(ラング)はその意味が限定されるという。聞き手は、そのように限定された「言語」(ラング)を受容することによって、特定の個物を認識理解できる、というのが(ソシュール学の)「理解」に対する説明である」と述べている。
 両者の違いはどこにあるのだろうか。ソシュールは、話し手が「言語」(ラング)を運用することによって「言語」(ラング)は《限定され》、聞き手はその限定された「言語」(ラング)を受容することによって個物を認識理解できる、としていることに対して、著者は、そもそも話し手の段階で《一切の言語的表現は、具体的個別的な素材を、非限定的に一般的に表現することである》から、個物の個別的表現を聞き手が理解できるはずがない、と主張しているように思える。ソシュールのいう「限定」とは、話し手の頭の中にある不特定の「言語」(ラング)の中から、その一つを選んで「言」(パロル)として表現(顕在化)したとき、聞き手は、その「言」(パロル)を通して、限定された「言語」(ラング)を話し手同様に想定する、そのことを「理解」としている、というほどのことではないだろうか。それに対して、言語過程説における聞き手は、非限定的、一般的に表現された音声、文字を通して、それが具体的、個別的にはどのような素材であるかを逆推、追体験しなければならない。それが「理解」することであり、そのためには聞き手の主体性が必要不可欠になる、ということではないだろうか。
 さらに、話し手の言語を聞き手が理解するためには、「つねに共通的な一般的なものが必要とされ、理解が成立する必須の条件は、概念過程を経過して表現されるということである」という指摘がたいそう興味深かった。要するに、両者が共通の「概念過程」を辿らなければ、理解は不能だということである。俗にいう「話が通じない」ということは、概念過程を共有、共感していないということである、ということがよくわかった。
(2017.9.15)