梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

教訓Ⅴ・《男と女》

 人間は動物である。したがって、「所詮、男はオス、女はメスに過ぎない」という認識が肝要である。繁殖のためオスはメスを求め、メスはオスを受け入れる。人間の大脳は重く、そのため活発な「精神活動」を可能にした。「思慕」「恋愛」「愛別離苦」「怨憎会苦」等々、オスとメスの「発情・求愛」活動を表す言葉は、その産物である。
 人間は動物である。したがって、それらの「精神活動」とかかわりなく、無意識の次元で異性を求め合っていることを見落としてはならない。人間は、そのために触覚、嗅覚をフル活用する。双方の波長が一致すると惹かれ合い、結ばれるが、互いに満足する確率は極めて低い。人間特有の「精神活動」に惑わされるからである。触覚、嗅覚より視覚、聴覚を重視してしまうからである。異性同士、「衣装・化粧」を施して、自分の本来を隠し合うからである。そのことが「錯覚」を惹起し、様々なドラマを演出する。ドラマは虚構の産物に過ぎないが、それを「現実」と取り違えて混乱する。
 そうした「精神活動」は人間にとって幸か不幸か、それが問題であるといえよう。
  厳密に言えば、異性同士が結ばれて幸せになれる確率は1%にも満たない。一人の男(オス)に対応する女(メス)は一人しかいないからである。(その逆もまた然り)その究極の一人を求めて彷徨するのが人生なのだ。しかし、相手は生涯見つからず、次善に甘んじるのが常であろう。「愛別離苦」とは、愛しい相手と別れなければならない苦しみのことであり、「怨憎会苦」とは、嫌いな相手と会わなければならない苦しさのことだが、まさに《愛憎は紙一重》、愛することは憎むことに他ならない。「こんなはずではなかった」と失望することなかれ。愛する相手を憎むようになることが人間界の摂理なのだから。触覚、嗅覚の魅力も、(まして視覚、聴覚の魅力など)時が経ち度重なれば「鼻につく」。鼻につかない相手など万人に一人しかいないと諦めて、我慢・辛抱することが肝腎である。さればこそ、「男もつらいし、女もつらい、男と女はなおつらい。それでいいのさ、いいんだよ、逢うも別れも夢ん中」(『夢ん中』、詞・阿久悠、曲・森田公一、唄・小林旭)という流行歌の文言は正鵠を射ているのだ。(2017.1.24)