梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

喫緊・最大の課題

 人は、その文字が示すように、支え合って生きていく。支えられる方も、支える方も、互いに相手を必要としている。弱者は強者を頼りにするが、強者もまた一人では生きて行けない。弱者があればこそ強者になれるのである。といった関係が人間社会の摂理だと思われるのだが・・・。実際には弱肉強食の原理が優先されているようである。
 人は、支え合う相手を失ったとき、どうなるか。心身のバランスが崩れ、落ち着きをなくす。その状態は一様ではなく、専門家によって「心身症」「神経症」「心因反応」「抑うつ状態」「うつ病」「人格障害」「発達障害」「統合失調症」等々、多種多様なレッテルを貼られることになる。それぞれのレッテルには、その状態に応じて、これまた多種多様な処方が準備されているようだ。しかし、今のところ、特効薬は見当たらない。
 大切なことは、専門家のレッテルに惑わされないことである。要は一点、支え合う相手を失ったとき(または、そう感じたとき)、再び相手を求めるか、それとも、ゴータマ・
シッダールタ(ブッダ)の言葉どおり、「犀の角のようにただ独り歩む」か、そのいずれかを選択することである。彼は言う。「今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。」(経集75)
 いうまでもなく、私自身は「自分の利益のみを知る人間」で「きたならしい」。そこまでは分かっているつもりだが、さてどうするか。人生の終焉を迎えようとしている者の、喫緊・最大の課題なのである。(2016.8.22)


「国境」を決めるのは誰か

 「北方領土」であれ、「尖閣」であれ、「竹島」であれ、国境を決めるのは「第三者」ではない。当事する国のうち「強者」が決めることは、世界(歴史)の常識であろう。日清・日露の戦役で、日本の領土は拡大したが、先の大戦での敗北により縮小した。大切なことは、領土の拡大が、日本人に何をもたらしたか、という観点であろう。その領土を守るために300余万人の命が奪われたのであった。一方、戦後60余年、日本人は「戦争を放棄」し(させられ)、懸命な復興に取り組んだ結果、社会は徐々に発展、今日のような繁栄を築きあげることができたのである。「強者」ではなく「弱者」になる(強いられる)ことによってもたらされた、この「現実」をどのように評価するか・・・。それは「個人の自由」である。「繁栄」を維持・継続するために、再び「北方領土」を奪還、「尖閣」「竹島」を「死守」するのもよい。「金持ちけんかせず」の要領で、異国の「民族主義」(反日感情)を「どこ吹く風」と受け流すのもよい。いずれにせよ、「繁栄」などという代物は、所詮は「砂上の楼閣」に過ぎず、永遠に続くことなどあり得ない。「おごる平家は久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」という無常観こそが、日本人の財産(世界文化遺産)なのだから・・・。「目には目を、歯には歯を」という(政治的)スローガンは、言うまでもなく「弱者」の教条に過ぎない。いじめられ、虐げられた子どもに、「やられたらやり返せ」と叱咤する親の心情と大差ないだろう。さて、日本人は「憲法」を改正、再び「強者」への道を歩み始める、そのことを誰よりも望んでいるのは、他ならぬ(内外の)「戦争業者」(武器製造・運搬・兵站調達等々、軍事関係業者)であることは間違いない。彼らにとって、「繁栄」とは「戦争」であり、どちらが勝とうが負けようが、何人の命が奪われようが、そんなことはお構いなし、要するに自社の「製品」が売れればよいからである。「北方領土」であれ、「尖閣」であれ、「竹島」であれ、国境を決めるのは「強者」である。そしてまた、そうした「決着」を誰よりも望んでいるのは、決して表舞台には登場しない(闇の)「戦争業者」であることを見落としてはならない、と私は思う。(2012.8.18)

ヒトは何のために生きるのか

 まもなく私は70歳、古来より稀とされている年齢を迎えることになる。17歳の時から「死にたい」と思い続けながら、53年が過ぎた。その思いとは裏腹に、性懲りもなく「生き(延び)ている」自分に、ほとほと愛想が尽きる。ヒトは何のために生きるのであろうか。ヒトは「人間」として生きる前に「動物」として生きる。では、動物は何のために生きるのか。動物は「食べる」ために生きる。そして「子孫を残す」ために生きる。「食べる」ことも「子孫を残す」こともできなくなった動物は「死ぬ」。それが自然の摂理というものだが、ヒトだけは、その摂理に反して、無駄な抵抗をしているようだ。「食べる」ことができなくなったヒトは、「経管栄養」「胃瘻」などという姑息な手段によって、延命を図る。「子孫を残す」ことができなくても、堂々と生きている。「高齢化社会」とは、その典型であろう。深沢七郎が描いた「楢山節考」の世界では、ヒトは70歳を超えて「生きる」ことはできない。70歳を迎える前に「お山に行かなければならない」という、(ムラの)掟があるからである。そこに登場する、おりん婆さんと隣家の又やんは同い年、ともに70歳を迎えることになったが、その「生き様」(死に様)は対照的である。おりんは、1年前から着々と準備を進め、渋る倅を叱咤しながらお山に向かう。又やんは必死に抵抗、縛られた縄を食いちぎって逃げようとするが、倅に崖から突き落とされて墜死。どちらが「人間」的な「生き方」(死に方)か。それを判断するのは、私たちの自由だが、ヒトは「人間」として生きる前に「動物」として生きていることを思い知れば、ムラの掟(自然の摂理)を欣然と受け入れるおりんの「生き様」(死に様)の方が、より「人間」的ではないだろうか。
 いずれにせよ、現代の日本は「超高齢社会」、もはや「子孫を残す」ことができなくなた人々(ヒトビト)が25%を超えたとやら、その「異常」を「正常化」するために、一日も早く「私は死ななければならない」ことを肝銘するのだが・・・。
(2014.10.15)