梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・フライトレコード(3)

    お嬢さんの話をすると、太陽が黄色くなってボクの胸はやけただれ、心臓が止まったはずだ。死んだら、生きなければならない。どこにいるのかボク、だれかボクを知らないか、という歌は賛歌だ。アカサカミツケにいたのはボクではないのですか。そこはボクの消えた場所で、いた場所ではない。おかしいなあ。ボクって誰ですか。そんなことわかる筈ないし、わからなければならない。もう寝ましょうよ。靴。それは興味ある問題だ。ああ恥ずかしいなあ。恥ずかしいんだよ。「喜劇」とは男と女による例の退屈な物語もしくは事実に他ならない。トウキョウ。そこで地下鉄をおりて、階段をのぼった。耳のうしろがジーンと鳴ってフラフラしたけどかまわない。闇の世界なんて夢だ。フラフラフラ。空だ。青かったんだ。サン・グラスはちょっと重たいけれど、やむを得ない。ああきょうも生きているんだ。死ななければならない。死んでごらんなさい。それは生活のイロハ、すなわち喜劇役者の自明の理だ。そうだろうか。先生。そこに友達がいた。先生は友達だ。なんだ、そうでしたか。お嬢さんのことですか。お嬢さんは先生ではないのです。喜劇の主人公がたとえボクであっても、ボクは決してコメディアンではなかった筈だ。先生はコメディアンだろうか。コメディアンだ。何故なら第一、サン・グラスをかけていない。第二に娘のお嬢さんに抱かれた。第三にボクの先生だ。もうメンドウになってそこをかけ抜けたとき、トウキョウに雨がふった。これで健康が回復できるだろうか。ともかくも今まではそうだった。生かしも殺しもしない雨。天の恵みとはそうしたものにちがいない。はてしない循環を、肉体それ自体は繰り返すだろう。死にてえな。およしなさい。サン・グラスは不要だ。雨ふれ。眼をつぶると、フワリと宙に浮いてトウキョウの上にいた。
(1966.5.5)

小説・フライトレコード(2)

 空は青いだろうな。洗面器はどこにあるのでしょうか。吐かせて下さい。春や春。コタツに入りながら寝てみようか。地下鉄、動け。青い空のない、闇の世界へつれていって下さい。まぶしいなあ、もう。どうやら頭の中のキカイがこわれてしまったらしい。そういえばあのとき、それがいつかもう忘れてしまったけれど、ともかく例の「喜劇」を見てしまったとき、ボクはどこかえ消えてしまったのだった。それゆえ、今日の地下鉄での邂逅はまさに奇蹟といえば奇蹟なのである。でもそんなことに感動しなかったし、ボクも感動しなかった。どうか楽にさせてくれよ。死なせて下さい。甘ったれといわれれば本望だ。胸、とりわけ心臓がオカシクて、青い空がイケナイのです。ザワザワザワ。それから吐いた。動く地下鉄というキャッチ・フレーズ、畜生あれは嘘だ。どこまでも蛍光灯のトンネルがつづいて、吊り革がゆれていた。幅をきかせているのは本当に蛍光灯なのだろうか。それともボクなのか。お嬢さん、ブラウスが揺れていますよ。深呼吸。おちつけ。おちついて思い出してみよう。ボクはどんな顔をしていただろう。ボクは何を考えていただろう。何をしていたのだろう。あの地下鉄のボク。おそらく想像力の破壊されたボク。それは祝福しなければならないことかもしれません。アカサカミツケ。生活を守る日々があったんだな。守ったんだな。深夜の地下鉄工事の町を、胸がはりさけそうになってボクは走ったんだ。朝はまだですか。まだですよ。まだだったんだね。それ以来、空が青くて、たまらなく死にたい。
(1966.5.5)

小説・フライトレコード(1)

    空がただもうやたらに青くてたまらないから死にたい。もうずっと昔から思っていたように死んでしまえばよかったんだ。空が青いんだよ。太陽が悪いのでしょうか。この町で唯一つの動く電車、地下鉄に乗ってみたくて乗った。動きゃあしないじゃないか。ものすごい吐き気がして、そこにボクがいた。そしてボクがあいさつをしたのだ。この世界では、あの太陽とやらに優るとも劣らず蛍光灯という奴が幅をきかせていることは、知っていた。別におかわりありませんか。だからこうして生きているのだけれど、それにしても吊り革にヒモノのようにブラ下がっているボクときたら、本当に生きているのだろうか。少なくともそのとなりのおいしそうなお嬢さんより、まだ生きているように思えるけれど、変わっていないんだな、何もかも。そんな筈ないじゃないか。苦しいんだよ。ガタリと鈍い音をたてて、地下鉄が闇の中に走り出した。と思ったのに、闇なんかどこにもありはしない。おかしいな。ボクは相変わらず、さも心得たように吊り革にブラ下がりながら、となりのお嬢さんのブラウスが静かに動くのをボンヤリ見つめていた。狭い下宿の壁で、コカ・コーラをチビチビやりながらボクのモデルになってくれたお嬢さんはどうしたのだろう。ボクはまだまだコドモだなと思った。地下鉄電車、動かない。アカサカミツケ。おい、待ってくれよ。困るんだ。ボクはそこでまた消えたのです。
(1966.5.5)