梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・センチメンタル・バラード(9)

    カナリア色の電車は、止まった。おかしいじゃないか。ヘルメットと木刀と乱闘服のおまわりが、この電車を止めたのだろうか。スピーカーから、恋人の声が聞こえてきた。たたかいははじまっているのよ。たたかわなければいけないのよ。たたかいをなくすために、平和を守るために、しあわせを勝ちとるために、たたかわなければいけないのよ。むなしいわ。むなしいから、むなしくたたかうのよ。ボクの予感は当たった。おまわりが電車を止めた。しかし、そのためにおまわりの集団の、およそ半分が死んだ。あなたはたたかっているのではないのですか。あなたは生活しているのです。あなたは生活しているのです。あなたには生活があります。あなたは愛しています。おまわり達を殺したのは誰か。ボクではない。ボクのコドモではない。恋人達ではない。恋人の声ではない。カナリア色の電車ではない。おまわり自身の、守るためのたたかいだろうか。生き残りのおまわりが、電車の外のどぶどろの海の中に立っている。ボクはどぶどろの海の中を見た。首のない、おまわりの死体が土嚢のように積みあげられて、その上に生き残りのおまわりが立っている。やむを得ず、部隊を以って整理します。おまわりは白い手袋をはめ、木刀を抜いた。電車は動かない。スピーカーから、予想どおりの声が聞こえてきた。冷静に、良識ある行動をとるよう希望します。それは恋人達のささやき合う声だったのかもしれない。ボクにとって、それが良識あるものであろうとなかろうと、行動はおまわりとたたかうか、たたかわないかのどちらかだ。電車は動かない。しかし窓もドアも閉ざされたままだ。良識ある行動とは、武装したおまわりとたたかうことです。電車の窓とドアが静かに開いた。ボクとおまわりはたたかうだろうか。おまわりと恋人達はたたかうだろうか。おまわりとボクのコドモはたたかうだろうか。
(1966.4.20)

小説・センチメンタル・バラード(8)

    生活はみじめだろう。ボクと恋人とのコミュニケーションにおける媒体は何か。それは肉体でも精神でも、その総体としての思想でも、ありはしない。あるいは、それらと現実との接点、すなわちたたかいの場、つまり生活であるか。馬鹿らしい。媒体のないコミュニケーションの自己運動は、ボク達の財産だ。ボク達の、すなわちボクとおまわりの、ボクと恋人達のコミュニケーションは、媒体をもっているだろうか。ボク達は、しあわせだ。自己完結した美はむなしいだろう。それもボク達の財産だ。ボクはサヨナラをいうために、そこからカナリア色の電車に、乗った。その中の、恋人達のささやきは、クレゾールの匂いのように、興ざめだ。そこに、ボクのコドモがいた。コドモは立ったまま眠っていたのだろうか。死んでいたのだろうか。この電車が止まらないのです。おりることができません。ボクは、この電車がどこにも行かないことを知っている。従って、おりる必要はない。サヨウナラ。スピーカーを通して、ボクの声がきこえた。この電車は本当に、止まらないだろうか。ボクはコドモがいらない。どぶどろの海がみえた。どぶどろの空は見えない。それはおそらく吉兆だろう。
(1966.4.20)

小説・センチメンタル・バラード(7)

    コドモは、あなたのではなかったのよ。愛していないわ。苦しくないわ。苦しいのよ。しあわせなの。たたかうのよ。ボクは、自分のでないコドモを、美智子とかいう女の子に、安産させてしまったことを、恥じなければならない。恥ずかしかったわ。恋人は死んだ方がいい。ボク達の、これからはじまる生活を、コドモにまかせてはいけない。生活は公園にはない。その向こうの森の中にはない。サヨウナラ、公園。サヨウナラ、森の中。たたかうのよ。たたかわなければいけないのよ。ボクはそのたたかいに勝たなければならない。おまわりは木刀を抜いた。サヨウナラ、おまわり。チャヨォナラ、おまわりチャン。たたかいははじまっているのよ。たたかいは続いているのだろうか。ボクは嘘つきです。ボクと恋人との討論は終わった。二万円の背広を、デパートで作らせることに胸をおどらせるのが生活なら、ボクは生活をあきらめよう。むなしいたたかいをあきらめよう。ボクの、愛していない大切な恋人は、ボクの自慰行為が三回で完結することを知っている。
(1966.4.20)