梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「ダイアローグ・公園」(2)

 そのヒトとすわっている公園のベンチのまわりにも、水銀灯がチラホラとつき、あたりは暗くなりはじめた。ボクがモジモジしていていっこう煮えきらないのに、そのヒトはまるで平気だった。偉いな、とボクは思った。なんだかそのヒトが、ボクのお父さんのように思えてきて、甘えてもいいかしらなんて勝手に決めてしまいそうになった。
 そして、「あの・・・」とボクが言いかけると、そのヒトはどうしたわけか、「いや、すぐでなくていいんですよ。考えておいてください」と言うと、あわてて森の方へ小走りに行ってしまったのだ。せっかくボクが本当のことを話そうと思ったのに、とちょっとシャクにさわっていると、向こうの方からおまわりさんがやってきた。そのとたんに、何だかボクは悪いことをしているような気がして、あたりをうつろにみまわしながら、またモジモジしてしまった。「そんなところで、何してるんだ」ハッとボクはビックリしてしまって、ベンチの上に飛び上がると、また腰が抜けたようにドタンとすわった。そのとたんにズボンのお尻のぬい目がビリッとやぶけてしまった。ボクはもうすっかりオロオロして、黙った。「何してるんだ、そんなところで」ボクは答えなければならないと思って、おまわりさんの顔をおそるおそる見上げた。すると意外なことに、唇が自然にひらいて何やら答えているのだ。そしてそれは信じられないほど、ボクには不思議なことだった。何故というに、はっきりとはわからないけど、ボクはしきりにおまわりさんに甘えているらしいのだ。第一ボクの言っていることが、このボク自身にはっきりわからないというのが不思議だ。その上、ふだんは何だか他人行儀でよそよそしく感じているおまわりさんなんかに、仲良くなろうと甘えていることも不思議だ。それにもまして、おまわりさんがボクなんかをまじめくさって相手にしているのも一層不思議なのだ。ボクは、夢でもみているのかしらんと思うと、考えるのがメンドウになってなるようになれと、すべてをボクの唇のしゃべり放題にまかせることにした。そしていざそうしてしまうと、ボクは女の子にでもなったような気がした。いいじゃねえか、いいじゃねえかとしきりに自分自身にいいきかせながら、ボクは女の子も悪くないもんだな、と思った。それと同時に、どうしてボクは自分自身にいいきかせるときのコトバはこんなに乱暴になるのだろう、と思った。どうやら、ボクはおまわりさんに抱かれて愛撫されているらしいのだ。いいじゃねえかと自分自身にいいきかせながら、ボクはさっきの「政治」のヒトにはどうしてあんなにモジモジいたんだろうと、考えた。そしてそう考えれば考えるほど、ボクはおまわりさんに抱かれたまま、何だか気が大きくなってはしゃぎまわっているらしかった。
(1966.3.25)

小説・「ダイアローグ・公園」(1)

 「政治」なんてひらきなおられて、ボクは恥部をのぞかれたように真っ赤になってしまった。しかもそのヒトは「政治をやりませんか」というのだ。それはどういう意味なのか、ボクにはサッパリわからなかったので、黙ってモジモジしながら、それでも心の中では、わからないなんて答えるのは恥ずかしいな、と一生懸命考えた。第一そのヒトは、ボクなど比べものにならないほど立派な顔つきをして、そのまなざしといったら、ボクの心の奥の隅の隅までボク自身すら気づいていないようなところまで、即座に見透かせると思うほど鋭いのだ。ボクはしきりにコマッタコマッタと思いながら小さくなった。「どうです。やりませんか」またそのヒトの骨までひびきわたるような声が、ボクにたずねるのだ。ボクは、なんとか答えなければ失礼だな、と思っておそるおそるそのヒトの顔を見上げた。すると、思いがけなくも、ボクの唇は自然にひらいて蚊の鳴くような声で答えていたのだ。「あの、まだ慣れていませんから」そしてそれは、ボク自身も感心するほど上出来だな、と思った。でも甘すぎた。そのヒトは平気でいうのだ。「誰でも初めはそうですよ」ボクはもう観念して、恥ずかしいけど本当のことを言ってしまおうかな、と思った。どうやらそのヒトは、政治とは何かについてボクがよく知っているものと勘違いしているらしいのだ。
(1966.3.25)

小説・「プロローグ・海」(5)

 気がつくと朝でした。そしてボクの両足はいつのまにか真っ白な波に洗われているのです。ボクは夢を見ていたのでしょうか。でもだとしたK子さんがいないのは何故でしょう。ボクは何気なく東の方を見やりました。するとどうしたことでしょう。あの岩の海岸がすぐそこにみえるではありませんか。ボクはかけ出しました。ハアハア息をはずませて、ボクはきのう絵をかいた場所に立ちました。そこでボクは気が動転するほど驚くべきものを見たのです。それはボクの「たましい」でした。沢山の岩の中に、ひときわ奇妙な形をしてその姿を波に洗わせているのです。ボクはすべてを諒解しました。ボクはもう本当に町に帰ることができなくなってしまったのです。ボクの忘れものの正体は他ならぬボクの「たましい」でした。そしてボクはきのう絵をかいたことによって、ボクの「たましい」とその岩を物々交換してしまったらしいのです。そのひときわ奇妙な形をした岩を、いやボクの「たましい」を持ち帰ることができない以上ボクは永遠にこの場所にとどまらなければならないのでしょう。 ボクは今度こそ本当に涙を流しました。  
 「うぬぼれないでよ」  
 たしかにK子さんの声がしたように思います。しかしK子さんのすがたはどこにも見えませんでした。(了)
(1966.3.10)