梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・芝居「アヒルの子」(鹿島順一劇団)

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年4月公演・東洋健康センターえびす座〉                                                                       東北新幹線郡山駅からバスで20分、磐越西線喜久田駅(無人駅)から徒歩15分のところに東洋健康センターはある。インターネットの情報では、やたらと劇場の「悪口」が書かれていたが、「聞くと見るとでは大違い」。数ある健康センターの中でも、浴室の広さ、泉質のよさ、仮眠室の追加提供等々、ぬくもりと、きめの細かなサービスにおいては、屈指の施設だ、と私は思った。もっとも、鹿島劇団は、観客への「癒し」・「元気」のプレゼントにおいては屈指の実力の持ち主、この劇団が行くところ、行くところの施設・劇場には、つねにそうした「至福の空気」が漂うことは間違いない。劇場の案内では「人気劇団初登場!!」と宣伝されていたが、鹿島劇団を「人気劇団」と評す「小屋主」の目は高い。地元常連客の評価「今日は土曜日、いつもなら大入りだが、なにせ初めての劇団だから、それは無理か・・・」。鹿島劇団の「人気」とは「数」ではない。今日も、秋田から「元気」をもらいに「駆けつけてきた」御贔屓がいるではないか。強いて言うなら、「お客様のために、あえて《大入り》を目指さない」とでも言おうか、「ゆとりのあるスペースの中で、楽しんでいただきたい」とでも言おうか、いずれにせよ、観客の「数」にかかわりなく、つねに「超一級の舞台」を目指すことがこの劇団の特長なのである。
 芝居の外題は「アヒルの子」、社会人情喜劇と銘打った演目で、登場人物は下請け会社員の夫婦(夫・鹿島順一、妻・春日舞子)と娘・君子(生田春美)、その家の間借り人夫婦(夫・蛇々丸、妻・春夏悠生)、電気点検に訪れる電電公社社員とおぼしき若者(鹿島虎順)、親会社の社長(花道あきら)という面々(配役)。この人たちが繰り広げる「ドタバタ騒動」が、なんとも「ほほえましく」「愛らしく」、そして「滑稽」なのである。以前の舞台では、娘・君子を三代目虎順、間借り人の妻を春大吉、電気点検の若者を金太郎が演じていたが、それはそれ、今度は今度というような具合で、本来の女役を生田春美、春夏悠生という「新人女優」が(懸命に)演じたことで、「より自然な」景色・風情を描出することができたのではないか、と私は思う。だが、何と言ってもこの芝居の魅力は、座長・鹿島順一と蛇々丸の「絡み」、温厚・お人好しを絵に描いたような会社員が、人一倍ヤキモチ焼きの間借り人に、妻の「不貞」を示唆される場面は「永久保存」に値する出来栄えであった。なかでも《およそ人間の子どもというものは、母親の胎内に宿ってより、十月十日の満ちくる潮ともろともに、オサンタイラノヒモトケテ、「オギャー」と生まれてくるのが、これすなわち人間の子ども、七月児(ナナツキゴ)は育っても八月児(ヤツキゴ)は育たーん!!》という「名文句」を絶叫する蛇々丸の風情は天下一品、抱腹絶倒間違いなしの「至芸」と言えよう。その他、間借り人の妻が追い出される場面、娘・君子が「おじちゃん!」といって帰宅する場面、社長の手紙を読み終わって夫(座長)が憤る場面等々、「絵になる情景」を挙げればきりがない。要するに眼目は「生みの親より育ての親」、きわめて単純な(何の代わり映えのしない)筋書なのに、これほどまでに見事な舞台を作り出せるのは、役者それぞれの「演技力」「チームワーク」の賜物というほかはない。その「演技力」の源が、座長・鹿島順一の生育史にあることは当然至極、彼ほど「育ての親のありがたさ」を実感・肝銘している役者はいないかもしれない。加えて素晴らしいことは、蛇々丸を筆頭に座員の面々が(裏方、照明係にいたるまで)、座長の「演技力」に心酔、各自の「実力」として「吸収」「結実化」しつつあるという点であろう。ところで、件の名文句にあった「オサンタイラノヒモトケテ」とは、どのような意味だろうか、その謎もまた、この芝居の魅力なのだ・・・・。 
 歌謡・舞踊ショーで唄った、座長の「瞼の母」(作詞・坂口ふみ緒 作曲・沢しげと)は「日本一」、島津亜弥、杉良太郎、中村美津子らの作物を軽く凌いでしまう。理由は簡単、三十過ぎても母を恋しがる「甘ったれな」ヤクザの心情・風情に「最も近い」のが、旅役者・鹿島順一、番場の忠太郎への「共感度」が違うのである。そのことは、2コーラス目台詞の最後「逢いたくなったら、俺ァ瞼をつむるんだ」などと、原作通りには吐かないことからも明らかである。「瞼をつむる」?、間違いではないかもしれない、とはいえ、通常なら(ヤクザなら)「瞼を閉じる」「目をつむる」と言う方が自然、そこで鹿島順一の台詞は以下のように改竄されていた。《逢いたくなったら、俺ァ目をつむろうよ・・・》蓋し名言、脱帽する他はない。
(2009.4.15)

大衆演劇・芝居「六十一・賀の祝」(鹿島順一劇団)

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年1月公演・つくば湯ーワールド〉
 芝居の外題は「六十一・賀の祝」。還暦を迎える父(座長・鹿島順一)とその息子たち(兄・花道あきら、弟・春大吉)の物語である。兄は、父の羽振りのよかった時期に物心ついたので、好条件の教育を受けられたが、弟は父の凋落時に生まれ、養育を大工の棟梁に任せられる始末、未だにうだつが上がらない。その結果、兄は弟を「あざけり」「そしる」、弟は兄を「うらみ」「あらがう」という関係に・・・。その様子を周知している父、二人がそうなったのも「みんな自分の責任」と弟に謝り、還暦の祝に招待した。兄にしてみれば、せっかくの、めでたい席を弟に汚されたくないという思い、祝の当日、はち合わせるやいなや、怒鳴る、殴るの兄弟げんか・・・。仲裁にかけつけた父、たまらず、二人の腕を手拭いで「固結び」、「もしほどいたら、二人とも勘当だ!よーく、頭を冷やして考えろ」と言い残し退場。残された、兄と弟。しばらくは「反発しあっていたが」、双方が、水を飲む、厠へ行く、飯を食べる、窒息しそうになる「相手」と「付き合わざるを得ない」うちに、次第に、幼かった頃の「兄弟愛」が蘇り、「仲良く家業を分担しよう」ということで、めでたし、めでたし。兄弟の嫁は、新人女優・春夏悠生、生田春美が担当、舞台に花を添えていた。
 1月公演も明日で千秋楽、どうやらこの劇場での観客動員数は(団体客を除き)、昼60人、夜30人というところで終わりそうである。しかし、その90人は、心底この劇団の「支持者」であることは間違いない。当所「初見え」の劇場でよく頑張った、と私は思う。とりわけ、三代目虎順を筆頭に、赤胴誠、春夏悠生、生田春美らの「若手」の成長が著しかった。今日の舞踊ショー、父・鹿島順一の歌声をバックに踊った、虎順「瞼の母」の舞台は、劇団の目玉として磨き上げてもらいたい。歌声は、間違いなく「日本一」、舞姿の風情は、年格好からいって、まず蛇々丸あたりが「お手本」を示すべきかも。赤胴誠の「箱根八里の半次郎」は、デビュー当時の氷川きよしとイメージが重なり、その「初々しさ」において格別の舞台であった。春夏悠生、生田春美の「おきゃん」もそうだが、舞踊における「若手」の「立ち姿」が「絵になっている」ところが素晴らしい。その集中力・緊張感を「組舞踊」の「大勢」の中でも発揮できるようになれば、三代目虎順に「一歩ずつ」近づくことができるだろう。
(2009.1.29)

大衆演劇・芝居「月とすっぽん」(鹿島順一劇団)

【鹿島順一劇団】(平成20年3月公演・小岩湯宴ランド)
芝居の外題は「月とすっぽん」。登場人物は「すっぽん」の兄・平太郎(座長)と「月」の弟(三代目虎順)、「すっぽん」の下女・おなべ(春日舞子)と「月」のお嬢さん(生田春美?)という取り合わせ。病弱な親分(花道あきら)は、子分のうち、律儀で素直な弟をたいそう気に入っており、自分の娘を嫁がせたうえ、跡目を譲ろうとした。しかし、弟は辞退する。「まだ兄貴が嫁をもらっていないのに・・・。ましてお嬢さんなど・・・。身分が違います」人のよさそうな親分「心配はいらねえ、お前の兄貴には俺がよく言って聞かせる、娘が誰よりもお前を気に入っているんだから、この話をうけてくれまいか」度重なる説得に、「それなら・・」と弟も応じた。大喜びの娘、その手を取って弟も欣然と退場。そこへ、ほろ酔い機嫌の兄、ふらふらと登場。「おりいって親分に話がある」と言う。親分が応じると「もうこのへんで身を固めたい。親分のお嬢さんを嫁にいただきたい」びっくりする親分、「そうだったのか!だが平太郎よ、お前は一舟乗り遅れたぜ」「どういうこってす?」「娘は、さっきお前の弟に嫁がせることに決めてしまったんだ!」「なんですって?私とお嬢さんとは、とっくの昔に夫婦約束をしていたんですよ!」「本当か?それはいつのことだ」「忘れもしねえ、お嬢さんが三つ、あっしが花も恥じらう十の時でござんす!」あきれる親分。「バカを言うな、そんな話にのれるもんか」娘の代わりにいい女を見つけてやるからあきらめろと説得。平太郎「どこの女ですか?小岩ですか、川越ですか?それとも柏ですか」親分、花道あきらになって(役から現実に戻って)笑いが止まらない。平太郎、「わかりました。盃を水にしてください。親子の縁もこれっきり・・・」待て!と留めると思いきや、意外にも「おお、そうか、それでいいだろう。お前との盃は水にしてやる」拍子抜けして、落胆のまま平太郎退場。後へ来たのが対立する親分(春大吉)とその一党(蛇々丸、梅乃枝健、金太郎、赤銅誠)、「縄張りをよこせ」と迫る。断る親分を惨殺、一味は、その娘まで連れ去った。その様子を見て驚いた「すっぽん」のおなべ、平太郎に知らせようと一目散に退場。
二景は平太郎宅。跡目相続とお嬢さんとの結婚、その吉報を知らせようと弟は、兄・平太郎を待つ。まもなく、平太郎、落胆を通り越し、ふて腐れの風情で登場。吉報を報告する弟に、そっけない。「兄貴、祝ってくれねえのか?」という弟の問いかけに、「あたりめえだ!後から生まれてきたくせに、俺の大事なお嬢さんを横取りしやがって!勝手にするがいい」と、ふて腐れる。弟「兄貴、どうして祝ってくれねえんだ?まだガキの頃、俺が川でおぼれそうになったとき、カゼをひいているのに、そのうえカナヅチなのに、俺を助けようと飛び込んでくれたじゃあないか、あのときのやさしい兄貴はどこへいっちまったんだ」じっと瞑目して聞いていた平太郎、「そうだったよな、俺も大人げなかった。おめでとうよ」と優しい言葉を投げかけたが、それは芝居。「なんでえ、照明や裏方まで味方につけるなんて卑怯だぞ。舞台を暗くして、悲しそうな音楽をかけ、泣き落とそうとしたって騙されねえ。だれが何と言おうと、お前とお嬢さんが夫婦になるなんて、俺はがまんできない」「そういわずに兄貴・・・」と言い合っている最中に、突然、楽屋裏でバタンと大きな音(大道具が倒れたに違いない)、平太郎(一瞬、座長に返って)、楽屋裏を覗いたまま10秒間沈黙、舞台、客席は凍りついたように静まりかえった。そして、つぶやくように話し出す。「客が騒ぐのはがまんできるが(そういえば前景で、頓狂な声で騒ぎ、従業員に注意された客がいたのも事実であった)、楽屋裏が芝居を邪魔するとは、許せねえ・・・」このアドリブこそ座長・鹿島順一の真骨頂なのである。舞台で役者を演じながらも、つねに座員の動静、客席の雰囲気に気を配り、責任者としての苦労を重ねているからこそ吐いた「つぶやき」(本音)ではないだろうか。「大丈夫か?誰も怪我はしていないか?」という心配が、手に取るように私にはわかった。さらにまた、その10秒間沈黙の間、凍りついたように「固まった」(ストップモーション)弟役の三代目・虎順も「さすが」の一語に尽きる。突然生じたハプニングにどう対応すればよいか、「とまどう」のではなく、じっと(父であり師でもある)座長の「出(方)」を待ち続ける、弟子(子)の姿に私は感動した。「下手なアドリブ」でその間を取り繕うことはできるかも知れない。しかし、師の前で、弟子がそれをすることは(たとえ親子であっても)絶対に「許されない」のである。そうした不文律が徹底していることが、この劇団の真髄なのだ、と私は思う。
座長のアドリブが客の笑いを誘い、舞台は本筋に戻る。息を切らし、あわてて飛び込んでくるおなべ、「大変だ!親分が殺された。お嬢さんも、敵方の親分に連れ去られた!」「何だって?」仰天する弟。「兄貴!お嬢さんを助け出す。親分の敵も討つ。力を貸してくれ」しかし、平太郎は応じない。「どうとでも、勝手にするがいいや。俺はとうに親分との盃は水にしている。お前ひとりで助けにいけ、俺は関係ない!」とふて腐れる。「そうか、わかったよ、もう兄貴には頼まねえ」、弟は「押っ取り刀」で、単身、敵地に駆けだして行く。それを見ていたおなべ、「平さん、何してるんだ、早く助けに行かないか!」
「俺は関係ない」「関係ないことがあるもんか。お世話になった親分の敵を討つのは当たり前、兄として弟のために命をはってこそ『男』じゃないか。見損なったよ。あんたは『男』じゃない」「何だと?おれは『男』だ。じゃあ、助けに行けば『男』になれるのか?」「ああ、なれるともさ!」「よーし、助けに行くぞ」「そうこなくっちゃ!だからあたしは、平さんに惚れてんだ。およばずながら、このおなべも助太刀するよ!」「よしてくれ、足手まといだ」「邪魔になってもためにはならない」という絶妙なやりとりが、楽しかった。
 かくて、敵地に乗り込んだ、平太郎とおなべ、孤軍奮闘する弟に近づき「助っ人するぞ!後は任せろ」「兄貴、すまねえ」しかし、相手は多勢、一瞬、背中を見せた平太郎に敵の親分が斬りかかる。「危ない!」とっさに平太郎を守ろうとしたおなべ、肩口から大きく切り込まれた。それに気づいた平太郎、おなべを助けようとして自分も脇腹を刺される。
弟の登場でどうにか敵を討ち果たすことはできたが、舞台は暗転、愁嘆場の景色となった。
深手を負った平太郎、おなべを抱き寄せ「やっぱり、すっぽんにはすっぽん、俺にはお前がお似合いだあ」「だから言っただろう、あたしたちは『割れ鍋に閉じ蓋だって』・・・」「ちげえねえや」「平ちゃん、どうせ死ぬんなら、ぱっと明るく死のうよ。あの歌、唄っておくれよ」「いいともさ。エイヤアー、会津磐梯山は・・・宝の山よ」「笹に黄金がええまた成り下がる」苦しい息の中で、でも楽しそうに唄いながら、ふらふらと踊る「すっぽん二人」(絶品の相舞踊)、生まれたときは別々でも「死ぬときは一緒」、至上の幸せを手にした風情の臨終に、「月二人」(弟とお嬢さん)が合掌する、浮世絵かと見紛う艶やかな場面で、終幕となった。この劇団に数ある「名舞台」の中でも「屈指の出来映え」だったといえるだろう。
 舞踊ショー、座長の佐々木小次郎、「物干し竿」(長刀)を一瞬に抜き放つ「離れ業」は、まさに「至芸」、感嘆に値する。ラストショー、「のれん太鼓」(群舞)では新人・赤胴誠、舞踊の初舞台(?)、彼を見守る座長・座員一同の「暖かい眼差し」が、えもいわれぬ景色を作りだしていた。 
 あらためて、この劇団の「隙のない舞台」「客に対する誠実さ」が感じられ、深い感銘を受けた次第である。
(2008.3.15)