梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

大衆演劇・芝居「六十一・賀の祝」(鹿島順一劇団)

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年1月公演・つくば湯ーワールド〉
 芝居の外題は「六十一・賀の祝」。還暦を迎える父(座長・鹿島順一)とその息子たち(兄・花道あきら、弟・春大吉)の物語である。兄は、父の羽振りのよかった時期に物心ついたので、好条件の教育を受けられたが、弟は父の凋落時に生まれ、養育を大工の棟梁に任せられる始末、未だにうだつが上がらない。その結果、兄は弟を「あざけり」「そしる」、弟は兄を「うらみ」「あらがう」という関係に・・・。その様子を周知している父、二人がそうなったのも「みんな自分の責任」と弟に謝り、還暦の祝に招待した。兄にしてみれば、せっかくの、めでたい席を弟に汚されたくないという思い、祝の当日、はち合わせるやいなや、怒鳴る、殴るの兄弟げんか・・・。仲裁にかけつけた父、たまらず、二人の腕を手拭いで「固結び」、「もしほどいたら、二人とも勘当だ!よーく、頭を冷やして考えろ」と言い残し退場。残された、兄と弟。しばらくは「反発しあっていたが」、双方が、水を飲む、厠へ行く、飯を食べる、窒息しそうになる「相手」と「付き合わざるを得ない」うちに、次第に、幼かった頃の「兄弟愛」が蘇り、「仲良く家業を分担しよう」ということで、めでたし、めでたし。兄弟の嫁は、新人女優・春夏悠生、生田春美が担当、舞台に花を添えていた。
 1月公演も明日で千秋楽、どうやらこの劇場での観客動員数は(団体客を除き)、昼60人、夜30人というところで終わりそうである。しかし、その90人は、心底この劇団の「支持者」であることは間違いない。当所「初見え」の劇場でよく頑張った、と私は思う。とりわけ、三代目虎順を筆頭に、赤胴誠、春夏悠生、生田春美らの「若手」の成長が著しかった。今日の舞踊ショー、父・鹿島順一の歌声をバックに踊った、虎順「瞼の母」の舞台は、劇団の目玉として磨き上げてもらいたい。歌声は、間違いなく「日本一」、舞姿の風情は、年格好からいって、まず蛇々丸あたりが「お手本」を示すべきかも。赤胴誠の「箱根八里の半次郎」は、デビュー当時の氷川きよしとイメージが重なり、その「初々しさ」において格別の舞台であった。春夏悠生、生田春美の「おきゃん」もそうだが、舞踊における「若手」の「立ち姿」が「絵になっている」ところが素晴らしい。その集中力・緊張感を「組舞踊」の「大勢」の中でも発揮できるようになれば、三代目虎順に「一歩ずつ」近づくことができるだろう。
(2009.1.29)

大衆演劇・芝居「月とすっぽん」(鹿島順一劇団)

【鹿島順一劇団】(平成20年3月公演・小岩湯宴ランド)
芝居の外題は「月とすっぽん」。登場人物は「すっぽん」の兄・平太郎(座長)と「月」の弟(三代目虎順)、「すっぽん」の下女・おなべ(春日舞子)と「月」のお嬢さん(生田春美?)という取り合わせ。病弱な親分(花道あきら)は、子分のうち、律儀で素直な弟をたいそう気に入っており、自分の娘を嫁がせたうえ、跡目を譲ろうとした。しかし、弟は辞退する。「まだ兄貴が嫁をもらっていないのに・・・。ましてお嬢さんなど・・・。身分が違います」人のよさそうな親分「心配はいらねえ、お前の兄貴には俺がよく言って聞かせる、娘が誰よりもお前を気に入っているんだから、この話をうけてくれまいか」度重なる説得に、「それなら・・」と弟も応じた。大喜びの娘、その手を取って弟も欣然と退場。そこへ、ほろ酔い機嫌の兄、ふらふらと登場。「おりいって親分に話がある」と言う。親分が応じると「もうこのへんで身を固めたい。親分のお嬢さんを嫁にいただきたい」びっくりする親分、「そうだったのか!だが平太郎よ、お前は一舟乗り遅れたぜ」「どういうこってす?」「娘は、さっきお前の弟に嫁がせることに決めてしまったんだ!」「なんですって?私とお嬢さんとは、とっくの昔に夫婦約束をしていたんですよ!」「本当か?それはいつのことだ」「忘れもしねえ、お嬢さんが三つ、あっしが花も恥じらう十の時でござんす!」あきれる親分。「バカを言うな、そんな話にのれるもんか」娘の代わりにいい女を見つけてやるからあきらめろと説得。平太郎「どこの女ですか?小岩ですか、川越ですか?それとも柏ですか」親分、花道あきらになって(役から現実に戻って)笑いが止まらない。平太郎、「わかりました。盃を水にしてください。親子の縁もこれっきり・・・」待て!と留めると思いきや、意外にも「おお、そうか、それでいいだろう。お前との盃は水にしてやる」拍子抜けして、落胆のまま平太郎退場。後へ来たのが対立する親分(春大吉)とその一党(蛇々丸、梅乃枝健、金太郎、赤銅誠)、「縄張りをよこせ」と迫る。断る親分を惨殺、一味は、その娘まで連れ去った。その様子を見て驚いた「すっぽん」のおなべ、平太郎に知らせようと一目散に退場。
二景は平太郎宅。跡目相続とお嬢さんとの結婚、その吉報を知らせようと弟は、兄・平太郎を待つ。まもなく、平太郎、落胆を通り越し、ふて腐れの風情で登場。吉報を報告する弟に、そっけない。「兄貴、祝ってくれねえのか?」という弟の問いかけに、「あたりめえだ!後から生まれてきたくせに、俺の大事なお嬢さんを横取りしやがって!勝手にするがいい」と、ふて腐れる。弟「兄貴、どうして祝ってくれねえんだ?まだガキの頃、俺が川でおぼれそうになったとき、カゼをひいているのに、そのうえカナヅチなのに、俺を助けようと飛び込んでくれたじゃあないか、あのときのやさしい兄貴はどこへいっちまったんだ」じっと瞑目して聞いていた平太郎、「そうだったよな、俺も大人げなかった。おめでとうよ」と優しい言葉を投げかけたが、それは芝居。「なんでえ、照明や裏方まで味方につけるなんて卑怯だぞ。舞台を暗くして、悲しそうな音楽をかけ、泣き落とそうとしたって騙されねえ。だれが何と言おうと、お前とお嬢さんが夫婦になるなんて、俺はがまんできない」「そういわずに兄貴・・・」と言い合っている最中に、突然、楽屋裏でバタンと大きな音(大道具が倒れたに違いない)、平太郎(一瞬、座長に返って)、楽屋裏を覗いたまま10秒間沈黙、舞台、客席は凍りついたように静まりかえった。そして、つぶやくように話し出す。「客が騒ぐのはがまんできるが(そういえば前景で、頓狂な声で騒ぎ、従業員に注意された客がいたのも事実であった)、楽屋裏が芝居を邪魔するとは、許せねえ・・・」このアドリブこそ座長・鹿島順一の真骨頂なのである。舞台で役者を演じながらも、つねに座員の動静、客席の雰囲気に気を配り、責任者としての苦労を重ねているからこそ吐いた「つぶやき」(本音)ではないだろうか。「大丈夫か?誰も怪我はしていないか?」という心配が、手に取るように私にはわかった。さらにまた、その10秒間沈黙の間、凍りついたように「固まった」(ストップモーション)弟役の三代目・虎順も「さすが」の一語に尽きる。突然生じたハプニングにどう対応すればよいか、「とまどう」のではなく、じっと(父であり師でもある)座長の「出(方)」を待ち続ける、弟子(子)の姿に私は感動した。「下手なアドリブ」でその間を取り繕うことはできるかも知れない。しかし、師の前で、弟子がそれをすることは(たとえ親子であっても)絶対に「許されない」のである。そうした不文律が徹底していることが、この劇団の真髄なのだ、と私は思う。
座長のアドリブが客の笑いを誘い、舞台は本筋に戻る。息を切らし、あわてて飛び込んでくるおなべ、「大変だ!親分が殺された。お嬢さんも、敵方の親分に連れ去られた!」「何だって?」仰天する弟。「兄貴!お嬢さんを助け出す。親分の敵も討つ。力を貸してくれ」しかし、平太郎は応じない。「どうとでも、勝手にするがいいや。俺はとうに親分との盃は水にしている。お前ひとりで助けにいけ、俺は関係ない!」とふて腐れる。「そうか、わかったよ、もう兄貴には頼まねえ」、弟は「押っ取り刀」で、単身、敵地に駆けだして行く。それを見ていたおなべ、「平さん、何してるんだ、早く助けに行かないか!」
「俺は関係ない」「関係ないことがあるもんか。お世話になった親分の敵を討つのは当たり前、兄として弟のために命をはってこそ『男』じゃないか。見損なったよ。あんたは『男』じゃない」「何だと?おれは『男』だ。じゃあ、助けに行けば『男』になれるのか?」「ああ、なれるともさ!」「よーし、助けに行くぞ」「そうこなくっちゃ!だからあたしは、平さんに惚れてんだ。およばずながら、このおなべも助太刀するよ!」「よしてくれ、足手まといだ」「邪魔になってもためにはならない」という絶妙なやりとりが、楽しかった。
 かくて、敵地に乗り込んだ、平太郎とおなべ、孤軍奮闘する弟に近づき「助っ人するぞ!後は任せろ」「兄貴、すまねえ」しかし、相手は多勢、一瞬、背中を見せた平太郎に敵の親分が斬りかかる。「危ない!」とっさに平太郎を守ろうとしたおなべ、肩口から大きく切り込まれた。それに気づいた平太郎、おなべを助けようとして自分も脇腹を刺される。
弟の登場でどうにか敵を討ち果たすことはできたが、舞台は暗転、愁嘆場の景色となった。
深手を負った平太郎、おなべを抱き寄せ「やっぱり、すっぽんにはすっぽん、俺にはお前がお似合いだあ」「だから言っただろう、あたしたちは『割れ鍋に閉じ蓋だって』・・・」「ちげえねえや」「平ちゃん、どうせ死ぬんなら、ぱっと明るく死のうよ。あの歌、唄っておくれよ」「いいともさ。エイヤアー、会津磐梯山は・・・宝の山よ」「笹に黄金がええまた成り下がる」苦しい息の中で、でも楽しそうに唄いながら、ふらふらと踊る「すっぽん二人」(絶品の相舞踊)、生まれたときは別々でも「死ぬときは一緒」、至上の幸せを手にした風情の臨終に、「月二人」(弟とお嬢さん)が合掌する、浮世絵かと見紛う艶やかな場面で、終幕となった。この劇団に数ある「名舞台」の中でも「屈指の出来映え」だったといえるだろう。
 舞踊ショー、座長の佐々木小次郎、「物干し竿」(長刀)を一瞬に抜き放つ「離れ業」は、まさに「至芸」、感嘆に値する。ラストショー、「のれん太鼓」(群舞)では新人・赤胴誠、舞踊の初舞台(?)、彼を見守る座長・座員一同の「暖かい眼差し」が、えもいわれぬ景色を作りだしていた。 
 あらためて、この劇団の「隙のない舞台」「客に対する誠実さ」が感じられ、深い感銘を受けた次第である。
(2008.3.15)

大衆演劇・芝居「人生花舞台」(鹿島順一劇団)

【鹿島順一劇団】(座長・鹿島順一)〈平成21年1月公演・つくば湯ーワールド〉
 芝居の外題は「人生花舞台」。この劇団、この演目の見聞は3回目、今回の配役は大幅に様変わりした。元・歌舞伎役者(老爺)の主役が、座長・鹿島順一から蛇々丸へ、清水の次郎長が花道あきらから座長へ、一家子分の大政が蛇々丸から花道あきらへ、というように。その結果、これまでとは「全く違った趣き」の景色・風情が現出する。この劇団の芝居は、同じ演目であっても、その時、その場所、その空気、その客筋などによって「千変万化」することが特長である。言い換えれば、芝居の出来・不出来は「一期一会」、その日の「客との呼吸」によって決まることを、座長は熟知しており、またその思惑を座員全員が「心得」、つねに「最高の舞台」を作り出そうと「真摯」「懸命」な努力を重ねているということが、この劇団の「素晴らしさ」であり「実力」なのである。
 今回の舞台、主役・蛇々丸は、座長・鹿島順一の「舞台姿」を誠実に「なぞり」ながら、彼独自の「個性」も輝かせている。春大吉の「花形役者ぶり」にも、いっそうの磨きがかかり、「父子の再会」シーンが鮮やかな「絵巻物」のように観てとれた。加えて、その仲をとりもった清水次郎長(座長・鹿島順一)の風格・貫禄は「天下一品」、この芝居に「もうひとりの主役」が登場してしまう、という雰囲気であった。
 舞踊ショー幕開けの組舞踊「忠臣蔵」は、圧巻。「刃傷松の廊下」は、歌唱・鹿島順一、浅野内匠頭・三代目虎順、吉良上野介・蛇々丸、「浅野内匠頭切腹」は、春大吉、「立花左近」は、左近・鹿島順一、大石内蔵助・花道あきら、「俵星玄蕃」は三代目虎順、杉野十兵次・春大吉という役柄で、申し分ない。とりわけ、「刃傷松の廊下」の歌唱・鹿島順一は、元祖・真山一郎よりも「数段上」の実力、多くの観客は「鮒め、鮒め、鮒侍め!カッ、カッ、カッ、ペッ・・・」と罵倒する台詞の時まで、歌い手が誰かに気づかなかったのではないだろうか。欲を言えば「俵星玄蕃」の三代目虎順、その「心情表現」において、まだスーパー兄弟・南條影虎には及ばない。でも、つねに全身全霊で芸道に励む彼のこと、いつかは必ず「追いつき、追い超すだろう」ことを確信する。1月公演も前半を終了、ようやくこの劇団の「客席づくり」が軌道に乗ってきたようだ。開幕前のアナウンスで「拍手」、開幕で拍手、座長をはじめ各座員の登場で拍手、退場で拍手・・・、というように「客との呼吸」が「一致」しはじめた。浅草木馬館で「劇団竜之助」の座長・大川竜之助は、自らが先頭に立ってその「盛り上げ係」に徹していたが、この劇団は、「何もしない」。公演を重ねることによって、いわゆる「御贔屓筋」が「選別」され、「目利きの客」だけで「客席」が埋まるようになるのではないか。客筋は「量よりも質」、そのことが「舞台」を充実させる唯一の道であることを、この劇団は知っている。送迎バス運転手の話。「わざわざ、新潟から来られたお客さんがいるんですよ、どうしても鹿島劇団を観たいんですって。新潟にも劇場があるはずなのにねえ・・・」客席最前列で拍手と花(御祝儀)を贈り続けた、そのお客さんの話。「とうとう来てしまいました。新潟は大雪です。いつも体の調子がよくないんですが、この劇団の舞台を観ると『元気』がでるんです。ありがたいことです」。
(2009.1.20)