梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

私の戦後70年・金魚

 小学校二年頃のことだったか、私は秋祭りの夜店で金魚すくいをした。収穫は和金一匹、ビニールの袋に入れて持ち帰ったが金魚鉢がない。やむなくコップに入れて玄関先に置いた。しかし翌日には和金の姿は消えてしまった。あまりの狭さに跳び出してしまったのだろう。消沈している私を見て、父は豪華な太鼓型の金魚鉢を購入、数匹の琉金を入れてくれた。以後、濁った水の交換や金魚鉢の洗浄は父の担当になったが、ガラスの鉢は滑りやすく、割れること度々であった。金魚鉢は熱帯魚用の水槽に変わり、また陶器の火鉢へと進展する。最後はとうとう特注の木製プールになった。金魚も琉金から出目金を経て、らんちゅうへ・・・。平井まで行って稚魚を求め、イトミミズ、赤虫で飼育する。父が手を入れると、らんちゅうが掌に乗ってくる。父の飼育歴はほぼ十年に亘ったが、やがて公園の池に放つ時がやってきた。父が水辺に屈んで「ほら、自由に泳げ!」と放流すると、「子飼い」のらんちゅうたちは一泳ぎして、手元に戻ってくる。「フーン、可愛いもんだな」と父はしきりに感心していた。(2015.4,4)


私の戦後70年・祖母の葬儀

 昭和28年1月4日、焼き場は順番を待つ棺でごった返していた。祖母の棺を窯に入れたが、その数分後、誰かが叫んだ。「違う!違う!お棺を間違えた」、一同「えええっ」と驚き、係員が窯の扉を開けて、「熱い!熱い!」と言いながら、再び、祖母の棺を取り出した。釘付けされた蓋を、大急ぎで打ち破る。一同、おそるおそる覗き込んだが、中には白菊に囲まれた祖母が。間違いなく横たわっていたのである。一度窯に入れた棺を取り出すなど、言語道断・前代未聞の出来事だが、さればこそ、その光景は、今でも私の脳裏に焼き付いて離れない。母は39歳、父は67歳で他界したが、私も今年で71歳、祖母の享年72歳まであと一歩、「死の準備」を終えなければならない段階に来ている。頭では解っているつもりだが、気持ちは「上の空」、我欲・我執にまみれた日々を、未だに捨てることができないのである。(2015.4,4)



私の戦後70年・《障子の中》

 昭和27年の大晦日、祖母は当時大流行したインフルエンザで病死した。焼き場は「三が日」が終わるまで休業、父と私は祖母の棺と、間借りの八畳一間で「空しい正月」を過ごさなければならなかった。「棺を見守りなさい。生き返るかもしれないから」などと言う父の言葉を信じて・・・。線香の煙と、供物の林檎の匂いが入り交じって、異様な空気が漂う中、私の心中には「障子の中に障子ありて障子なし」」という言葉が浮かんでくる。通夜の導師が、唱えた読経の文句が、妙に耳から離れない。今にして思えば、それは「生死のなかに仏あれば生死なし」(正法眼蔵生死の巻)という文言に違いない。爾来60余年、その有難い経文の意味を解せぬまま、現在に至っている。冥界にいる父母、祖母たちの嘆息が聞こえるようで、顔を上げることができない。(2015.4.3)