梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「英語教育」の《誤り》

 私は、中学校で3年間、高校で3年間、大学で4年間、合計10年間「英語教育」を受けた。しかし、英語を「話す」ことができるようにはならなかった。それは、ひとえに、私自身の「努力不足」「能力不足」の結果であることは、重々承知しているが、周囲にも、私同様の方々が、多数見受けられるところをみると、あながち「それだけ」とは言い切れない気がする。はたして、日本の(学校の)「英語教育」は、児童・生徒にとって適切・妥当なものであったかどうか。私の独断と偏見によれば、多くの(致命的な)「誤り」を犯してきた、またこれからも、犯し続ける虞がある。以下、その根拠を述べたい。
①英語を「聞く・話す」活動を、極端に「軽視」している。
②まだ音声言語を習得していないのに、文字言語を学習させようとしている。
③英語を「聞く」(ヒヤリング)能力よりも「話す」(スピーチ)能力を「重視」している。以上の3点は、言語学習にとっては、完全な「誤り」だが、日本の学校教育は、それを「意図的」に継承してきた。その理由は、単純、「聞く」学習を「評価」する方法が、指導者にとって「複雑」「難解」だったからに他ならない。加えて、「話す」学習(発語・発音)もまた、媒体が「音声」(一過性)である限り「評価」が「困難」といった具合で、要するに、「聞く・話す」領域は「評価ができない」、もしくは、それを評価できる指導者がいなかった、ということである。欧米諸国の文化を学ぶためには、まず「文献」から、そのためには、まず「英文解釈」ができなければならない。さらに、そのためには、「英文法」の理解が先決・・・といった風潮の中で、申し訳程度に「発音記号」も導入される、といった「惨状」は、今も続いているようだが・・・。
民間では「英語は絶対勉強するな!」という書物(CD教材)も出回っているそうだが、「筆答」で成績を「評価」される「勉強」は、本来の「英語教育」(英語学習)とは無縁であることの「証し」であろう。
「英語教育」の「誤り」を正すためには、以下の点が肝要である。
①「英語教育」は、まず「音声言語」の習得を図ること。
②「音声言語」の習得は「聞く」学習から始めること。
③「聞く」学習が、成立・熟達すれば、おのずと「話す」こともできるようになる。したがって、「話す」学習(いわゆる「発音練習」は行わないこと。
④「音声学習」が熟達するまで(日常会話が成立するまで)、「文字学習」は行わないこと。
⑤「英語教育」は、成績の評定を行わないこと。
(2013.1.19)