梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・27

《三 文字の記載法と語の変遷》
 文字は言語表現の一段階であり、思想伝達の媒介に過ぎない。また文字は、異なった社会にも隔たった時代にも媒介の機能を持つので、言語の変遷に及ぼす力は大きい。
 例えば、ミモノ→見物→ケンブツ、モノサワガシ→物騒→ブッソウのように漢字的記載を媒介として新しい語が成立することもある。「シロタヘ」を「白妙」と記載した結果、タヘは布の意味に過ぎなかったが、「妙」を表意的に理解して「白妙の富士」のような用法が生まれてくる。「ウツセミ」は現身の意味だが「空蝉」と表音的に記載した結果、それが表意的なものと考えられ、「空蝉の世」は人の一生の意味より転じて、蝉の抜殻のような無常空虚の世の意味になり、さらに「空蝉の殻」のような語が生まれるようになった。 このように文字が語義の変化に関与するのは、文字が意味音声の喚起の媒介にすぎないことを示している。


【感想】
 ここでは文字の記載法が言語を変遷させることが述べられている。日本語(大和言葉)を漢字で表したため、その漢字の意味がひとり歩きして、新しい意味を加えることになる。ミモノという語を見物という漢字で表したためケンブツという語が生まれる。また、シロタヘは白い布という意味であったが、白妙という漢字で表されたため、新たに白くて美しいという意味を表す白妙という語が生まれた。ウツセミも当初は現身の意味に過ぎなかったが、空蝉という漢字を当てられたため、無常空虚という意味が新たに加わったという説明がたいそう面白かった。
 著者は「このように文字が語義の変化に関与するのは、文字が意味音声の喚起の媒介にすぎないことを示している」と結んでいるが、ここでも文字が実体として音声と意味を含んでいるという考えは否定されていることが、よくわかった。


《四 表音文字の表意性》
 文字の本質的機能は、それが音声を喚起し、意味を喚起するところにある。
 文字は結局言語の意味を喚起するものだから、表音文字であっても、その文字が語の意味と必然的な関係を持っているように考えられてくるのは当然である。表音文字が意味を直接に内蔵しているように考える主体的意識を無視することはできない。
 今日、助詞として使われる「は」「を」「へ」等は完全な表音の機能を持っていない。これらを「わ」「お」「え」に置き換えられないという主体的な気持ちは、表音文字としてではなく、ある観念を表す表意文字として意識しているのである。これは全く習慣の久しきに基づく。
 言語過程は、最初意識的な主体的行為として始まり、それが習熟するに及んで、ほとんど反射的行為に接近し、そのようになることによって言語の機能が完成する。その結果、概念から音声への移行が、概念と音声の結合のように主体的には意識されるようになる。「痛い!」という表現が、ほとんど感嘆詞と思われるまで習熟するのはその一例である。ここにまた、言語変化の契機が潜んでいる。
 従って、言語の観察において、主体的意識にあるものは、どこまでも主体的意識としてその存在を確認し、これを対象にして言語機能全体における連関を明らかにする必要がある。


【感想】
 ここでは、表音文字である仮名が、意味を内蔵しているように感じられる例について述べられている。助詞の「は」「を」「へ」などは、「わ」「お」「え」に置き換えられない(「わたしわほんおよむ」という表記に違和感を感じる)ということは、「は」「を」「へ」などを表音的にではなく表意的に使っているということである。
 著者は「ある観念を表す表意文字として意識しているのである。これは全く習慣の久しきに基づく」と述べている。助詞は言語主体の観念が、そのまま語として顕在化したものである、という著者の「言語過程説」の一端が見えてきた。次章はいよいよ「文法論」である。大きな期待を持って読み進めたい。(2017.9.27)