梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第11章・《生活安全課》

 シロは力強く歩き出した。ぐいぐいと私を引っ張りながら、「どこに行くかは、任せてくれ」と言うように、脇目もふれずに歩いて行く。私は、犬橇に引かれるような気持ちで、全身をシロに任せていた。まだ、足元がふらつくようで、そうする他に方法はなかった。心の中では、ちあき・なおみの歌声を口ずさみながら・・・・。(「傘もささずに僕たちは」「歩き続けた雨の中」「夕空晴れて」「黄昏の街」「濡れたブラウス 胸元に」「花のしずくか ネックレス」、そんなフレーズが、繰り返し、私の心をよぎった)気がつくと、私たちは、花形親子の家の前に立っていた。
 家のたたずまいはこの前と変わっていなかったが、どこか、よそよそしく感じられた。「来る者を拒む」という雰囲気だった。シロはさかんに、敷石の匂いを嗅いでいる。
 私は、思い切って、インターホンを押してみた。たしかに、屋内で「ピンポーン」と言う音がしているのだが、反応がない。人気が感じられないのだ。(おかしい・・・)
 その時、シロが突然、「ワン・ワン」と大きな声で吠えだした。いつもとは違う、異様な叫び声だった。つられて、他の家の庭からも「ウー!ワン・ワン」という攻撃的な声が聞こえて始めた。その度に、シロは「ワン・ワン」と吠え返す。あちこちの家から住人が顔を出し、遠巻きに私たちを見つめている。「刺すような視線」に、私はいたたまれなくなった。
 「もう、いい。シロ、家に帰ろう」
 私の声は、引きつっていた。シロは、なおも「ワン・ワン」と吠え続け、その場に留まろうとしていたが、私は強い口調で、命令した。
「シロ、帰るんだ!」
 シロは、しかたなく「ウーン」という声をあげながら、私に従った。無表情で、凍りついたような、周囲の視線を感じながら、私たちはその場を離れなければならなかった。(どうしたことだろう? 何があったんだろう? いずれにせよ、何かしら異変があったことは間違いない)私の胸は「不安」と「緊張」で高鳴り始めた。心臓の鼓動がわかる。喉がからからに乾き、冷や汗が出てくる。(ともかく、家に帰ろう。何かの連絡が入るかもしれない)
四時近かった。家にたどり着くと、案の定、居間の電話が、激しく鳴っている。私は、大急ぎでシロを犬小屋に置き、居間に駆けつけた。電話の呼び出し音は、単調に続いていた。(間に合った!)と思い、私は受話器に飛びついた。
 「もしもし、お待たせしました」、と言うのが、やっとだった。息が切れていた。
「もしもし、新庄 晃さんのお宅ですか?」
呼吸を整えて、私は答えた。
「はい、そうです」
「こちら、○○警察署の生活安全課です。そちらに、新庄晃さんという方はいらっしゃいますか?」
「はい、私ですが・・・」
「ああ、御本人でしたか。それはよかった」
「・・・・・?」
「実はですねえ、さきほど、花形マリ子さんという方を保護したんですよ」
「はい」
「その方のこと、御存知ですか?」
「はい、知っています」
「そうですか。その花形マリ子さんという方が、そちらさまに連絡して欲しいとおっしゃるもんですからね、お電話したわけです」
「そうでしたか!」
「いつもは、花形さんの御自宅に連絡していたんですが、今、ちょっと連絡が取れない状態なんですよ」
「はい?」
「それでね。誠に申し訳ありませんが、花形マリ子さんを、引き取りに来ていただけませんでしょうか?」
「わかりました。すぐにうかがいます」
「何時頃になりますか?」
「そうですね。地下鉄で行きますから、三十分かかると思います」
「では、お待ちしています」
 私が、受話器を置こうとすると、
「あっ、ちょっと待ってください。その時、何かあなたさまの身元がわかるような物を持ってきていただきたいんですが・・・・」
 「免許証でいいですか?」
「はい、結構です。ではよろしくお願いします」
(変な話だ、私が新庄晃だと認めているのに・・・。「どんな様子ですか?」と訊きたかったが、まあいい、行けばわかることだ。)そう思いながら、ひとまずは安堵した。
いくぶん落ち着いた声で、「シロ、マリ子さんが見つかったんだって。これから迎えに行ってくるからね。」と声をかけ、私は○○警察署に向かった。
(2006.7.20)