梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第12章・《邂逅》

《第十二章 邂逅》
 ○○警察署に着いたのは五時を少し回った頃だった。受付で免許証を見せ、用件を告げると、若い婦警が「生活安全課」に案内してくれた。マリ子は、その廊下の長椅子の上に全身をすっぽりと毛布にくるまれ、寝かされていた。二人の警官がそばで監護している。
 「どうも、先ほどお電話いただいた、新庄です」と言って、免許証を見せた。
 中年の警官が、その写真を一瞥し、私の顔と見比べた後、
 「御苦労様です。」と言って、名刺を差し出した。見ると「○○警察署 生活安全課主任 山田 敬一」と印刷されていた。
 私は、その場から離れて、マリ子に聞こえないように、小声で訊ねた。
 「どんな様子ですか?」
 「ええ、三時頃、高架線のガード下に人がうずくまっているという通報がありまして、うちの署員が保護しました」
 「ケガとか病気とかは?」
 「特にありません。いつものことですから・・・」
 「いつものこと?」
 「はい、これまでに三回ほどありました。病気だから、仕方ないですよ。病院には通っているようですけど・・・」
 「暴れたりしたんですか?」
 「いえ。下着姿で外に飛び出すんです。時には、大声を上げることもありますが、今回は、バスタオル一枚を体に巻き付けて、静かにうずくまっていたようです」
 「そうでしたか。あの、何か飲ませてやりたいんですが・・・」
 「いいですよ、どうぞ、声をかけてあげてください」
 私は長椅子に戻り、マリ子の顔をのぞき込んだ。汗と泥で薄汚れていたが、一月前と変わっていない。マリ子は、寝たまま私の顔をじっと見つめ、少し微笑んだ。黒い瞳が涙で潤んでいた。私が、毛布の中の手を握ろうとすると、しっかりと握り返してきた。
 「マリ、のどが渇いたか?」
 マリ子は、小さくうなずいた。
 「じゃあ、ちょっと待ってて」
 玄関の自動販売機で缶コーヒーを買い、マリ子に飲ませた。マリ子は一気に飲み干した。
 山田という警官が口を開いた。
 「じゃあ、これから、御自宅までパトカーでお送りしますよ。付き添っていただけますか?」
 「はい、そうします」
 山田と、その他三人の警官、マリ子と私がパトカーに乗り込み、マリ子の自宅に向かった。マリ子は、無表情、無言のまま、時折、裸の長い脚が毛布から露出してしまうのにも気がつかない。私は、その度に毛布を掛け直した。二十分ほどで、マリ子の自宅に着いた。辺りの様子は、先ほどと変わっていない。山田と二人の警官はパトカーを降り、玄関のインターフォンを押している。私とマリ子はパトカーの中で、その様子を見ていた。通り過ぎる人たちが、無遠慮に、好奇の目で、車内を覗いていく。私・は、マリ子の手を握り、目をつむった。どこかで犬の鳴き声がしていた。
 警官たちは、中の様子を窺ったり、電話をかけたりしていたが、「埒があかない」という様子で戻って来たらしい。
パトカーの窓越しに、山田の声がした。
 「家の中に、誰もいない様子なんですよ。電話を入れて見ましたが、出ません。どうしましょうか?」
 私は、目を開けて答えた。
 「そうですか。では、私の自宅に送ってくれませんか?」
 「いいですよ。それでよろしいんですか」
 「はい、お願いします」
 「よし、新庄さんの自宅!」
 山田は、運転席の警官に指示した。パトカーは、方向転換して、再び走り出した。
 「道、わかりますか?」
 運転席の警官が、私に尋ねた。
 「ええ、十五分ほどでつくと思います」
 「では、その都度、指示してください」
 時間は六時に近かった。道路は渋滞気味で、(これでは、もっとかかるかな?)と、私は思った。
 山田が、話しかけてきた。
 「おかしいなあ、いつもは、すぐに連絡が取れるんですが・・・」
 「そうですか?」(何かあったんでしょうか?と口にでかかったが、私は自制した。あまり、面倒なことには関わりたくない。とにかくマリ子に会えたんだから・・・、という喜びの方が大きかった)
 「立ち入ったことを伺いますが、新庄さんは、花形さんのお身内のかたですか?」
 「ええ、まあ・・・・」
 私は、それ以上、話したくなかった。隠し立てをするつもりはないが、これまでの経緯を、マリ子に聞かれるのがいやだった。どうしても、花形ユキのことに触れざるを得なくなるだろう。「マタ アンナ オンナノコト カンガエテイル」とマリ子に思われたくなかった。
 「そうですか・・・。」と、山田はうなずいたが、「余計なことは話したくない」というこちらの気持ちを察したらしく、話題を変えた。
 「でも、新庄さんに連絡が取れて助かりました。このままでは、どうしようと思っていたところでしたから」
 「おまわりさんも大変ですね」
 「ええ、でも仕事ですから」
 「色々なことがあるでしょうね」
 「はい、はい。色々なことがありますよ」
 今度は、山田が「お茶を濁す」番だった。私は、少し、山田に親しみを感じてきたが、それ以上は問いかけない方がよいと思った。(向こうの魂胆はわかっている。私が何者か、その正体を知りたいのだろう。余計なしっぽをつかまれたくない)
 幸いにも、自宅が近づいてきた。
 「その角を、右に曲がってください!」
 私は、運転席の警官に指示し、間もなく、パトカーは自宅の前に停まった。
マリ子は二人の警官に抱きかかえられてパトカーを降り、応接間のソファに腰をおろした。
 「では、これで私たちは失礼します。何かありましたら、いつでも連絡してください」 「わかりました。お手数をおかけしました」
と、私は言って、マリ子がくるまっていた毛布を脱がせ、山田に返した。 
 マリ子の、泥人形のような肢体があらわになった。警官たちは、視線を避けるようにして、帰っていった。
 マリ子と私は二人きりになった。
 「マリ!会いたかったよ!」
 私は、泥人形のようなマリ子を抱きしめた。額、鼻先、首筋にこびりついた 汗や泥を舐め尽くした。あの「潮の香り」がした。懐かしかった。マリ子の息づかいが、波のうねりのように、私の全身に伝わってくる。(もう、離さない。一生、このままでいたい。) マリ子も、黙って目をつむり、私の息づかいを感じているようだった。背中に回した手のひらで、やさしく私を愛撫してくれた。今までの「空白」を埋め合わせするように、私たちは、いつまでもそうしていた。
(2006.7.20)