梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第10章・《悪夢》

 気がつくと、夜が明けていた。私は、あのまま応接間のソファに横になり、眠ってしっまったらしい。喉がからからに乾き、頭が重い。ズーン、ズーンと痛みが波のように押し寄せている。台所に行こうと立ち上がると、目の前が真っ暗になり、思わずその場に座り込んでしまった。(やばい。ジョー、だいじょうぶか?)自分の声が聞こえる。
(だいじょうぶだ。ただの二日酔いじゃないか)そう言い聞かせて、台所まで這っていった。流しにつかっまって立ち上がろうとするが、力が入らない。そのうちに、激しい吐き気が襲ってきた。息苦しい。(やってられないな、この歳で二日酔いとは・・・・)でも、後悔はしていなかった。(いいじゃあないか、誰に迷惑をかけるわけではなし。オマエ独りが我慢すればいいことなんだから)そう思うと、少し楽になった。(さて!)と、私は思いきり立ち上がり、流しを前にして、右手の指を喉の奥まで突っ込んだ。途端に、胃がきゅっと痙攣したかと思うと、こみ上げてきて「ゲッ ゲッ ゲーッ」と咽せかえった。しかし、それは不潔な音だけで、何も吐き出すことはできなかった。(なるほど、そういうことか。もう、吐くこともできないのか。それならそれでいい)私は、コップの水を口に含み、うがいをして吐き出した。フーッと溜息が自然に出た。口の中に残った水が、少しずつ食道に流れて行く。(今日は、シロと散歩はできそうにない)
そう思いながら、縁側まで這っていき、犬小屋に向かって呼びかけた。声がかすれて思うように出ない。 
 「シロ、シロ・・・・」
 シロは、犬小屋から飛び出し、しっぽを振っている。
「シロ、ごめん。今日は散歩には行けない。こんなざまだから・・・。勘弁してくれ」 シロは、心配そうに私のそばに身を寄せてきた。くんくんと私の匂いをかいでいる。
(そうか、シロもそうしてくれるのか。マリ子と同じだ。ありがとうよ)そう思いながら、間断なく襲ってくる頭痛と吐き気に耐える他はなかった。少しずつ力が抜け、また、私の意識は薄れていった。
 【夢の中にマリ子が現れたようだった。ナイトクラブで、仲間と飲んでいる私のとなりに、マリ子がいるのだ。マリ子は、しきりに辺りを気にしている。どこか落ち着きがない。
 「今日も、あの人来ているの?」私の女友達が、マリ子に尋ねた。マリ子は黙ってうなずいた。
「つまみ出したろか」
 私の仲間がドスの効いた声で呟いた。
「自分で話をつけましょうか」と、私は小声で言った。
仲間は、「それには及ばない」という風に、部下に指示した。
「おい、奴をここに呼んでこい!」
 男はすぐにやって来た。見るとカントだった。私と目で挨拶を交わしたが、どこかよそよそしい。私たちの席に座ると、聞き慣れたしゃがれ声で言った。
「おじゃまします。一杯だけいただいて、退散しますから・・・・。」
 一同が黙っていると、マリ子に向かって、しかし、皆に聞こえるようにハッキリと断定するように言った。
「いえね・・・。この男」と、私の方を見やりながら、
「以前にも、一人、女の人を泣かせたことがありましてね。そのことを御存知かと、心配だったものですから・・・」 
一瞬、座は静まりかえり、白けた雰囲気が漂った。マリ子は黙ってうつむいている。
苦しい夢だった。「身から出た錆」時代の、往時の記憶の断片が、マリ子と重なって妄想を招いたのだろう。体中汗まみれになりながら、私は喘いでいた。
 再び、「死」という文字が、頭の中を駆けめぐり始めた。(死にたい、死にたい、死にたい・・・・・。死ねば楽になるはずだ。このまま死にたい、でも、でも、死ねば本当に楽になるのだろうか?)
私の意識は、また三歳の情景に立ち戻る。夏の早朝、消防団員だった長兄が、深夜に起きた隣村の火事から帰り、私の両親に話をしている。
 「ひでえもんだった。あの庭の『石梨』がよ、焼けただれて、ゴロゴロと転がってるんだ!」
 私は、布団の中で、その声を夢心地に聞いていたが、その、焼けただれた『石梨』が、
はっきりと目に浮かび、わけもなく「死」という言葉と重なった。(そうだ、それは『石梨』ではなくて、人間の焼けこげた『魂』に違いない!)
 自分もまた、『石梨』のように、焼けこげて、暗いくらい闇の中に吸い込まれて行く。
(助けてくれ! その先には、どんな恐怖が待っているのだろうか)
 気がつくと、母がいた。その胸にしっかりと抱きしめられたが、その時の恐怖感は消え去ることはなかった。あの時の恐怖感は、今でも「形を変え、品を変えて」私の心によみがえる。


 どれくらい時間が経ったのだろうか。少しずつ、吐き気が遠のいてきた。呼吸も楽になってきたようだ。
 ふと気がつき、頭を上げると、私は縁側に横たわったまま、シロを抱いていたのだ。
 「シロ、ここにいたのか。ごめんね」
私は、シロを思い切り抱きしめ直すと、くんくんとシロの匂いをかぎまくった。「シロの匂い」がした。
「シロ、おまえはいい奴だ。本当にいい奴だ」
 なぜか、涙が後から後から溢れ出て、止まらなかった。
どうやら、立ち上がれるようになってきた。私は、台所の冷蔵庫からトマトジュースを取り出し、舐めるようにして飲み干した。塩味の利いた酸っぱさが、荒れた胃をやさしく包み込んでくれるような気がした。シロにもドッグフードと牛乳を与え、私は応接間に戻った。CDデッキのスイッチが入ったままになっていた。(そうだったな、これを聴きながら眠ってしっまったんだ。もう一度、聴いてみよう)
 私は、「再生」のボタンを押して、ソファに座った。ちあき・なおみの歌声が流れ出す。


雨に濡れてた 黄昏の街
貴女と歩いた 初めての夜
二人の肩に 銀色の雨
貴女のくちびる 濡れていたっけ
傘もささずに 僕たちは
歩き続けた 雨の中
あのネオンが ぼやけてた


雨がやんでた 黄昏の街
貴女の瞳に うるむ星影
夕空晴れて 黄昏の街
貴女の瞳  夜に××××
濡れたブラウス 胸元に
花のしずくか ネックレス
こきざみに ふるえてた


二人だけの 黄昏の街
並木の陰の 初めてのキス
初めてのキス


 「黄昏のビギン」という曲だった。昨日はところどころしか、聴き取れなかったが、今日は、ほとんど聴き取れた。だが、一箇所だけ、どうしても聴き取れない。何度も何度も聴きかえした。ちあき・なおみの歌声は独特で、「雨に濡れてた」が「雨にぬれタた」、「雨がやんでた」が「雨がやんダた」、「夕空晴れて」が「夕空晴れタ」のように聞こえる。そこがこの歌の魅力を倍増しているのだから、聴き取れない歌詞があっても私は満足だった。(マリ子がいればなあ、一緒に聞けるのに。一緒に、歌詞を想像できるのに・・・。)誰が作った歌だろうか。カントのCDは、裸のままだったので、タイトルしかわからない。「永六輔作詞・中村八大作曲」というところかな、と私は勝手に想像した。そういえば、この歌はもともと水原 弘が歌っていたのではなかったか。
 いずれにせよ、カントが「逸品」と評価したわけがわかるような気がした。 
私が、花形親子と会ったのは夜ではない。銀色の雨も降っていない。なのに、惹かれるのはなぜだろうか。「貴女」とは誰か? ユキ? マリ子? そうではない。私にとっては、誰でもよかった。これまで出会った、数知れずの「貴女」でよかった。私にとって大切なのは「黄昏の街」の方である。そうなのだ。私の「生活空間」は、「黄昏の街」以外の何ものではなく、もうすぐ、日没を迎えることは間違いない。「身から出た錆」の半生はいずれ終わる。いや、まもなく、かもしれない。いいようのない「寂寥感」の中で、「貴女」と二人だけで歩き続けることができたとしたら、こんなに素晴らしいことはないだろう。「銀色の雨」も、「ぼやけたネオン」も、「ブラウス」も、「ネックレス」も、「二人だけの黄昏」を彩るには最高のアイテムではなかろうか。
 その世界を想像するだけで、私の心は安まるのである。
CDには、このほか九曲が収録されており、私はソファに身をまかせながら、最後まで聴き続けた。すると、どうだろう。少しずつ「二日酔い」の苦しみが消えていったのだ。
時計を見ると、午後三時だった。(よし!、シロと散歩に行くぞ!)そう心に決めて、犬小屋に向かった。
 「シロ、待たせて悪かった。もう、だいじょうぶ。散歩に行こう!」
 シロは、嬉しそうにしっぽを振り、大きな声で一言「ワン」と応えた。
(2006.7.20)