梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

小説・「黄昏のビギン」・第2章・《未練》

 やはり、私は二人のことが気にかかってしまうのだ。老婆と中年の女は親子だろうか。嫁と姑だろうか。どことなく「気品」がただよい、旧家の母と娘のようにも感じる。「わけあり」と直感したのも、およそ車椅子の操作を誤るような二人には見えなかったからである。とっさのことで、二人を詳細に観察する余裕はなかったが、「すみません、ちょっと手を貸してください」と言ったのは、老婆の方だったか、それとも娘の方だったか。私が老婆を抱き上げようとしたとき、彼女は私の腕をしっかりと握ったが、その指に、貴婦人のような「艶めかしさ」を感じてしまったのだから、しかたがない。頭では「どうでもいいことだ」と思いながら、「もう一度、会ってみたい」という気持ちをおさえることができなくなった。
犬小屋の前で、「シロ、散歩に行こう」と声をかけ、駅前の広場に通う日が続いた。
しかし、二人は現れなかった。
「シロ、あの時の二人、今日も来ないね」  
「ワン」
「もう、会えないかな?」
「ウーン」
「そうだよな、わからないよな・・・。でも、もう一度、会ってみたいんだよ」
「ワン・ワン」
「そうか、シロは会いたくないのか」
 私は、「なぜ会いたいのだろうか」と自問した。「身から出た錆」で独身生活を余儀なくされたとき、「人はみな独りで生まれ、独りで死んでいく。別れは早いほうがよい」と心に決めたはずなのに、その決意はどこへ行ってしまったのか。おまえはまた性懲りもなく、「出会い」と「別れ」をくり返そうとするのか。生まれるときと死ぬときは独りでも、生きているときは誰かが欲しいのか。「去る者は追わず、来る者は拒まず」というのが、私自身の「処世術」であったはずだが、秘かに「来る者」を追い求めてはいなかったか。
「シロ、おまえは、独りでさびしくないのか?」
「ワン」
 その一言は、「そう、そのとおり、さびしくない」という意味だろうか、それとも「そう、あなたと同様に、さびしい」という意味だろうか。シロにもかつて盟友がいた。犬の散歩にも、様々な出会いがある。シロに向かって吠え立てる座敷犬などには見向きもしなかったが、堂々とした風格の柴犬、秋田犬、ゴールデンレトリバーなどには、果敢に挑みかかり、相手を従わせてしまう実力を持っていた。なかでも、ダンという紀州犬とは、仲が良かった。実力伯仲で、深夜の住宅街を闊歩することが日課となっていた。私自身も、その飼い主と一年余り「交遊」があったが、やはり「別れ」の時が来た。関西に旅立つ飼い主とダンをを見送りながら、シロの大きなまんまるの瞳にキラキラと涙が光っているのを、私は見た。
「シロだって、さびしいよね。今頃、ダンは何しているだろう?」
 シロは、応えなかった。
(2006.7.20)