梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「竹島問題」と「慰安婦問題」

 東京新聞朝刊(2面)に、国際政治学者・坂本義和氏の寄稿が紹介されている。タイトルは「竹島問題 日韓緊張緩和へ まず『慰安婦』自省から」、その論脈を(私なりに)整理すると以下の通りであった。①日本政府は、竹島問題解決のために国際司法裁判所に提訴する決定をしたが、それは国際的な法規範に基づいて解決しようとする意味で正しい。②しかし、韓国はその方式に賛同しない。最大の理由は、日本政府が朝鮮の植民地支配に対する誠実な謝罪と反省をしてこなかったことへの不信にある。従軍慰安婦問題が端的な例である。③日本は1965年の日韓基本条約で、経済協力という名の下に五億ドルを支払い、韓国の対日請求権は終わったとしている。しかし、その時点では、慰安婦の存在そのものが双方に意識されていなかった。④91年以降、慰安婦だった女性たちが声を上げ、93年に河野洋平官房長官の談話が発表された。談話で「心からおわびと反省の気持ち」と言いながら、日本政府は被害者が要求する公的な謝罪と補償は行わなかった。⑤韓国の憲法裁判所は昨年8月、韓国政府が慰安婦問題の解決を怠っていることに違憲判決を下した。⑦これに従って李明博大統領は、同12月の日韓首脳会談で1時間にわたり、慰安婦問題への日本の誠実な対処の必要を説いたが、野田首相は消極的な対応に終始した。⑧「慰安婦問題」の存在は「確証がない」という意見が国内にある。確証の一は、日本政府・旧日本軍の公文書だが、それらは終戦直後燃やされてしまった。文書がなければ事実はない、とは言えない。確証の二は、行動である。慰安婦だった女性たちを中心としたソウル日本大使館前での抗議集会(毎週水曜日)は、昨年12月に千回に達した。日本軍慰安婦という事実がなければ、誰が千回の集会を続けるだろうか。(以下略)84歳になった坂本氏は、複雑怪奇な国際政治の実態を、いともたやすく、平明に解説する。まさに「年の功」とは、このことを言うのだろう。要するに「竹島問題の要因は慰安婦問題にあり」という論脈である。北朝鮮の拉致問題が未解決なまま時間が過ぎていく。そのことに憤りを感じる日本。慰安婦問題が未解決なまま時間が過ぎていく。そのことに憤りを感じる韓国。ともに「痛みを感じようとしない」権力者を相手にしている点では「共通」している、と言えなくもない。いずれにせよ、「竹島問題」という国際紛争の背景には、韓国法曹界の「違憲判断」があること、行政を掌理する李大統領には「慰安婦問題」を解決する責務が課せられていること、それに対して日本政府は(拉致問題に対する北朝鮮政府と同様に)「すでに解決済み」(あるいは、その問題は無かった)という「消極的な対応」もしくは「はぐらかし」に終始している、という現実があるようだ。げに、「他人の痛み」は感じにくいものである。
(2012.9.8)

開いた口がふさがらない「八紘一宇」問答

 3月16日の参院予算委員会で、自民党の三原じゅん子議員が「八紘一宇」の思想を紹介したのに対して、麻生太郎副総理兼財務相は〈戦前の歌の中でも「往け八紘を宇となし」とかいろいろある。(略)こういった考え方をお持ちの方が三原先生みたいな世代におられるのに、ちょっと正直驚いたのが実感だ〉と応じたそうである。(東京新聞3月19日付け朝刊28面・「こちら特報部」)その問答を聞いて、私はまっさきに「老いては子に従え」という諺を思い浮かべた。75歳になろうとする麻生氏が、50歳そこそこの三原氏を「三原先生」と奉る図には、まさに老政治家が、若手であるがゆえに未熟な国会議員に従う姿勢が窺われて、「ちょっと正直驚いたのが実感」である。本来なら、「その思想によって、わが国は侵略戦争に突き進み、同胞300万人余の尊い命が失われた。戦後政治の中で、その思想が肯定されたことは一度もありません。今後も政治家の道を歩もうとするのなら、正しい歴史認識を学ぶように・・・」とでも諫言しなければならない。前出の記事では〈自民党の谷垣禎一幹事長は17日の記者会見で、「必ずしも本来、否定的な意味合いばかりを持つ言葉ではない」と三原議員を擁護した〉由、開いた口がふさがらない。子どもを育て損なった親たちが「老いて子に従え」ばどうなるか、将来は闇の中である。
(2015.3.20)

(安倍首相に続く)稲田防衛相の《嘘》

 稲田防衛相は、13日の参院予算委員会で「籠池氏の事件を受任したこともなけれなば、裁判を行ったこともない。(稲田氏が籠池氏の)顧問弁護士をしたというのは全くの虚偽だ」と発言したが、翌14日の参院予算委員会では「私の記憶が間違っていた。訂正し、おわびする。『虚偽』というのも言い過ぎだった」と答弁を撤回し、謝罪した。(「東京新聞」3月15日付け朝刊・トップ記事「揺れる稲田氏 答弁撤回」)野党四党は、与野党国対委員長会談で、稲田氏の答弁は虚偽だったとして辞任を要求。自民党側は「故意にうそをついたのではない」として応じず、籠池氏の参考人招致を拒否したそうである。(同上記事) 
 稲田氏は「わたしの記憶が間違っていた」ことを認め、答弁を撤回したとき、すでに氏の「政治生命」は絶たれているのであり、防衛相、国会議員を「辞任」しなければ「謝罪」したことにならないという「社会常識」を全く理解していないように見える。間違った理由を「記憶」の所為にして「故意ではなかったから虚偽には当たらない」などと見苦しい弁解は許されない。要するに、稲田氏は国会の場で(言い訳は何であれ)「嘘をついた」(事実ではないいこと強弁した)をことに変わりはないのだから。
 同種の「嘘」は、安倍内閣の面々に蔓延している。その筆頭は「私や妻、事務所を含めて一切関わっていない。関係していたなら、首相も国会議員も辞める」という安倍首相の発言である。安倍首相は「記憶」や「故意」といった心象の次元ではなく、まさに今、事実として「森友学園」と関わりがあるのである。その根拠の一は「妻が名誉校長である(であった)」という事実である。妻が、公人であろうが私人であろうが、安倍首相にとって「他人」である筈がない。安倍首相と関わりのある妻が「森友学園」と関わっているのだから、安倍首相と「森友学園」もまた関わりがある。それが「社会常識」である。その根拠の二は、国有地の売却問題が明るみになった時点で、安倍首相の妻は「名誉校長」を辞任した。もし、一切関わりがないのなら辞任する必要はない。関わりがあったから、「それを絶つために」妻は辞任したのである。これもまた「社会常識」である。安倍首相が、国有地の売却手続きに際して、「一切関わりがなかった」だろうことは当然である。しかし、国有地は「国民の財産」だ。その管理責任を(最終的に)負うのが首相であることも、いわずもがなの「社会常識」である。したがって、安倍首相は、「森友学園」の国有地売却問題に「関わりがある」のである。
 稲田防衛相の「誰にでもバレル嘘」、安倍首相の「姑息・巧妙な嘘」は、氷山の一角かもしれない。いずれにせよ、国民は古来より「嘘つきは泥棒の始まり」という金言を大切にしている。そのことを「記憶」にとどめて、《ゆめゆめ忘るるべからず》《油断は大敵ですぞ》と、安倍内閣の面々に申し上げたい。 (2017.3.15)