梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

白紙領収書「慣行」の《怪》

 10月6日の参院予算委員会で菅官房長官、稲田防衛相は、出席した政治資金パーティーで主催者から白紙の領収書を受け取り、金額や日付けは後から自らの事務所で記入したことを認めた。それは国会議員の「慣行」であり、高市総務相も「規制法に領収書の作成方法は規定されておらず、法律上の問題は生じない」との見解を示したそうである。(東京新聞10月7日付け朝刊1面)しかし、白紙領収書に水増しの金額を記入すれば違法である。
 規制法に領収書の作成方法が規定されていないのは何故か。領収書とは「代金を受け取った者が支払った者に対して金銭を受け取ったことを証明する書類」であり、そこに金額や日付けが記入されていなければ、ただの紙切れに過ぎない。受取人が領収書に金額、日付けを記入することは当然至極のことだからこそ、あえて作成方法を規定する必要など無いのである。それが《世間の常識》である。白紙領収書のやりとりを「慣行」だと強弁する国会議員の面々は、自らの厚顔無恥を自覚できず、すでに選良としての資質・資格を失っているのだ。加えて、その「慣行」の理由を、「多くの出席者がいるパーティーで短時間に領収書を作成することが難しい」などと弁明するようでは、まさに「語るに落ちた」典型で、図らずも当該議員連中の事務処理能力不足を天下に露呈しているに過ぎない。
(2016.10.7)

安倍首相・真珠湾スピーチの「空虚」

 昨年末の28日、 安倍首相は真珠湾を訪れ「全ての、米国民」に対して哀悼の演説を行った。その内容はおおむね以下のように要約されるだろう。
①(“リメンバー・パールハーバー”という米国民の感情に寄り添い)日本国総理大臣として「哀悼の誠」を捧げる。
②敗戦後、日本人は「不戦の誓い」を貫き、その「不動の方針をこれからも貫いて」いく「決意」である。
③米国は、日本人に対して「善意と支援の手」「寛容の心」を示してくれた、そのことは子孫に語り継ぎ忘れることはない。
④今、私は「オバマ大統領と共に、世界の人々に対して」「和解の力」を訴えたい。
⑤世界は「戦争の惨禍を」「いまだに」繰り返し、「憎悪が憎悪を招く連鎖」はなくならない、今こそ「寛容の心、和解の力」を必要としている。
⑥日米同盟は、そのことを「世界に向かって訴え続けていく任務を帯びている」『希望の同盟』である、
⑦パールハーバーは「寛容と和解の象徴」である、世界中の人々がそのことを記憶し続けてくれることを願い、そのための努力を続けていくことをオバマ大統領とともに誓う。


 はたして、安倍首相はこの内容を「理解」しているのだろうか。《自分で何を言っているのかわかっているのか》とは、ドラマなどでよく聞かれるセリフだが、それがピッタリ当てはまるようなスピーチであった、と私は思う。まず第一に、〈②敗戦後、日本人は「不戦の誓い」を貫き、その「不動の方針をこれからも貫いて」いく「決意」である。〉は《嘘》に等しい。安全保障関連法案で自衛隊の武力行使を容認し、憲法改正を悲願としている安倍首相の言葉とは思えない。日頃、口にしている「テロとの戦い」も放棄し、テロリストに対しても「不戦の誓い」を貫くのであろうか。安倍首相の言う「世界中の人々」にテロリストは含まれいないのだろうか。・・・まさに「言行不一致」の典型である。第二に、再三、同席者のオバマ大統領を名指し「オバマ大統領とともに」という文言を繰り返しているが、大統領の任期はまもなく終わる。その大統領「とともに」誓ったとしても、その誓いは「期限切れ」になることは必定である。安倍首相は自らを「日本国総理大臣」と名乗っているのだから「米国大統領とともに」と言わなければ意味がない。はたして、次期大統領とも《ともに》誓うことができるのだろうか。それとも次期大統領に「寛容の心、和解の力」を求めるメッセージだとでも言うのだろうか。・・・まさに曖昧模糊とした「政治家特有」の文言なのである。
 ことほどさように、安倍首相の演説は《空虚》であった。もし「不戦の誓い」を貫くのであれば、「日本国憲法では、永久に戦争を放棄している。したがって、いかなる武力紛争にも加担しない。憲法第九条こそが『寛容と和解の象徴』である。」ことを表明するべきであった、と私は思う。(2017.1.1)

「安倍カラー」(防衛費増額)の魂胆

    東京新聞朝刊(6面)に、「安倍カラー鮮明に 自衛隊の役割拡大の可能性 防衛費11年ぶり増へ」という見出しの記事が載っている。その内容(の一部)は、以下の通りであった。〈防衛省は2013年度予算の概算要求で、12年度より約千二百億円、2.6%増の四兆七千七百億円を計上した。認められば、防衛予算は11年ぶりの増額になる〉〈Q・予算増額は、首相が改憲で実現を目指す「国防軍」への布石か。A・防衛省は、北朝鮮によるミサイル発射や尖閣を含む南西諸島の防衛など、目の前の課題に素早く対応する体制を整備するためだと説明している。ただ、首相は集団的自衛権行使のための憲法解釈変更に意欲を示し、政府は年内にも「安倍カラー」を反映した新たな防衛計画の大綱と、中期的防衛力整備計画を策定する見通しだ。今回の予算増額が直接、国防軍に結び付くわけではないが、自衛隊の役割を大きく拡大する第一歩になる可能性は否定できない〉(生島章弘)。四兆七千七百億円という金額が、どれくらいのものなのか、私たち「無辜の民」にとっては、およそ実感がわかないが、日本の人口を1億として1人当たりに換算すれば、約4万7千7百円ということになる。その額が「高すぎるか」「安すぎるか」は、各自の判断にまかせるとして、大切なことは、本当にそれで日本が守れるのか、という視点であろう。そもそも、「日本を守る」とはどういうことか。そしてまた、その守るべき「日本」とは何なのか、が明らかにされなければならない、と私は思う。そんなことは「言わずもがな」、「日本」とは、おまえが住んでいるこの土地(国土)であり、おまえが一緒に暮らしている同胞(国民)ではないか(この未熟者!)、という叱咤の声が聞こえるが、本当にそうだろうか。西欧諸国において「国家」とは、その国の「政府」のことであり、国民と国家の間には「一体化しない距離」があると聞く。戦後の日本もまた、「国」を相手に訴訟を起こす「国民」が居る以上、相互の間に「距離」があることは間違いない。それが、(日本が)「民主主義国家」として存在するための条件(証し)である。しかし、「安倍カラー」が防衛しようとする「日本」とは、明治維新を端緒とする、あの伝統的な「美しい国」のことであり、天皇を君主とした「皇国」に他ならない。国民は、天皇の「赤子」であり「臣民」である。「国家」と「国民」は一体であり、それに反する者は、「国賊」であり「非国民」である。「美しい国」(皇国)は、西欧列強の「植民地支配」に抗して、日清・日露の戦いに勝利し、領土を拡大した。大東亜戦争、太平洋戦争もまた、欧米列強の「不当な支配」に対する「国土防衛」「植民地独立」のための戦いであったのだ。その「美しい国」を防衛するために犠牲となった同胞(英霊)のためにも、再び、その悲劇を繰り返さないためにも「防衛予算」は増額されなければならない・・・。といった言辞は、あくまでも「たてまえ」、それを「大義名分」という。実を言えば、「防衛予算」の増額で、しこたま「儲ける」連中がいるのである。武器の製造・販売、軍需品の調達、戦争を外注する民間軍事会社、等々。国民一人(当たり)が納める4万7千7百円は、間違いなく、彼らの懐に入ることを、見落としてはならない。いつ、どこの時代でも、「国家」は「国民」を守らなかった。その証拠に、東京大空襲、原爆投下等々、先の大戦(防衛戦争)の被害に遭った「国民」を、「国家」は今なお「見殺し」続けているではないか。だまされてはいけない。
(2013.1.9)