梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

私の戦後70年・生徒会役員選挙

 高校三年になった新学期、私は文芸部の仲間を誘って生徒会役員の選挙に立候補した。「高校は大学の予備校ではない、本来の高校生活を楽しもうではないか。学校はただちに受験教育を止めるべきである。学業成績による序列にとらわれず、本当の学問を始めよう。文化、スポーツのサークル活動を活発にし、個性を伸ばそう」と訴えた。会長候補は私一人、副会長、会計、専門部役員候補にも文芸部員を立てたが、結果は惨敗・・・。かろうじて副会長候補のK君一人だけが当選してしまった。この選挙、対立候補がいない場合でも「無投票当選」とはならない。K君以外は、私を筆頭にすべての候補者が「不信任」されたのであった。意気消沈した文芸部の部室にK君が入ってきた。「ヤバイヨ、これからどうする?」「やるしかないぞ!」、かくて一同は自分たちの夢をK君に託すことになったが、極めて公明正大な選挙であったことは間違いない。私はこの時、民主主義のイロハを学んだのである。(2015.5.3)


私の戦後70年・浄瑠璃寺

 高校二年の春休み、知友六人で京都・奈良・大阪方面を訪れた。一足早い「修学旅行」を気取っていたが、リュックサックにテント持参、食糧はアメヤ横町で調達、早朝の鈍行列車で東京駅を出発、京都、木津を経て加茂駅下車、そこから徒歩で浄瑠璃寺に向かう、10時間以上かけての「山行」であった。私たちは近隣農家の許可をもらって参道入口脇の窪地にテントを張った。境内を散策、本堂の九体仏、吉祥天立像を拝観した後、食事はコッヘル、アルコールコンロで調理した。二日目も、浄瑠璃寺にとどまり、三重塔に佇んで浄土式庭園の空気を十分に堪能したのだが、夕方から降り出した雨が激しくなり、雨水が窪地のテントの中に容赦なく流れ込む。やむなく私たちは近隣農家の車庫で一夜を過ごすことになった。農家の御主人いわく「車庫ならカマヘンヨ。ゆっくりオヤスミ」。東京から闖入した得体の知れない若者たちを快く招き入れてくれた温情は、今も忘れられない。
(2015.5.2)


私の戦後70年・山の男

 高校の文芸部には山岳部部員Mもいた。Mは両親と死別、叔父夫婦のもとから通学していた。早熟で「60年安保闘争」にも参加していた。先輩の詩作「《Revolution》革命と/訳されるが/日本の社会には/いまだ/訳されない/」に共鳴し、文芸部に入部したのであろう。Mはまた山を愛し、穂高、槍ヶ岳、谷川岳等々、数多くの登山を経験していた。私たちはその体験談に耳を傾け、岳人特有の隠語も学んだ。「キジを撃つ」「ロクる」など懐かしい言葉が浮かんでくる。Mは中途退学、社会人となって早々に結婚、相手は山岳会の同志だったと聞く。愛児たちも誕生、楽しい家庭生活を送っていたようだが、数年後、突如として一家全員が姿を消した。友人、知人たちが八方手を尽くして探しても見つからない。数ヶ月後であったか、Mの自家用車が奥多摩湖の湖底で見つかった。Mは家族で登山の帰路、運転を誤り全員が湖に転落したと思われる。私たちは「いい奴ばかりが先に逝く、どうでもいいのが残される」という俗謡を実感として噛みしめ、落涙した。(2015.5.1)