梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・40

【統合者としての「私」】
《要約》
・「今ここ」に支配された「私」を、もっと安定した「私」に引き継がせようとする背後には、統合者としての「私」が隠れているはずである。それは私たちの中にあって不断に活動する一つの「機能」であるに違いない。
・現代の脳医学は、人格を統合するためのこのような機能の「場」が、人の脳の前頭葉皮質にあることを確認しつつある。前頭葉皮質の中でも前頭前野と呼ばれる領域に、自分自身を監視しつつ制御するシステムがあることを確認するようになったのである。前頭葉は、深部にある情動の脳と表層の知的な脳をつなぐ役割を果たしている。それだけでも人格の統合者としての役割を窺わせるところがあるのだが、行動プログラミングの実行者兼監視者としての役割も果たしている。プログラムは時間をかけて目標を実現していくためのものだから、当然、今の「私」と未来の「私」をつなげる働きをするのである。
・《卑近な例》私は、この本の原稿を今書いている「私」が、以後、原稿のこの部分を読み返す「私」とかなり異なる存在であることを知っている。「書き手」である今の「私」の頭は少し興奮していて、現在の思考の流れにとらわれている。だから、冷静な「読み手」の働きは、その時のもう一人の「私」にすっかり託しているのである。今の「私」は、自分の文章をいじられることを潔しとしないが、時がくれば、新しい「私」がこの文章に手を加えたり、削除してしまうのも致し方ないと思っている。これは、私が自分自身に植えつけてきたプログラムなのである。
・そのような仕事には、「見直し」というプロセスが必ず入ってくる。自分の中にさまざまな顔をした「私」がいて、それぞれの視点から仕事の「現場」をみつめているからこそ、私たちの企てるプランは大きな間違いなしで実現されるようになってくるのである。


【社会的な脳】
・私たちは、自分自身の中の「私」たちをとりまとめ統合しようとしているだけでなく、それら分身たちを自由に泳がせ、いざというときの協力者として見聞を広めさせているとも考えられる。つまり、たえず「なわばり」を拡張しようとしている人間の姿が、ここでもう一度、浮かび上がってくるわけである。
・自分自身の分身を増やしすぎると、収拾がつかなくなって分裂の憂き目にあう可能性も出てくるが、四方に散らばった分身たちと連絡をつけ、多くの情報を得るための方法を、私たちはたくさんもっている。
・これに対して、自閉症者は自分自身を拡張しようとしない。それは、拡張した世界の中にさまよい出た自己に連絡をとり、アドバイスを与えるための適切な方法を彼らがみつけていないためである。
・今、脳の科学は、人の脳の働きを社会的なシステムになぞらえ「社会的な脳」として捉える方向に向かっている。人間の脳は非常に複雑なシステムになっていて、比較的孤立して働く諸部分からなる連合体である。「本能が壊れ」、行動の方向が多様となった人間の内部には、自然によって与えられた絶対的な意思決定者は住まなくなった。代わりに、内部で行動の方向をいくつも提案し、協議するシステムがつくられたのである。前頭葉がつくるプログラムは、まず仮説として提案され、脳内でなんらかのシュミレーションがおこなわれた後に出力される。その出力の結果もすぐにフィードバックされ、プログラムの評価のために用いられるのである。このように同じ人間の中で複数の立場がとられるのは、私たちが多重人格的な特性をもっているおかげである。
・旧ソビエトの神経心理学者ルリアは、多数の前頭葉損傷者を観察し、これらの患者には自己批判能力が欠如していることを認めた。彼らは、自分が最初に打ち出した行動の方向の誤りに気づくことなく行動し続けていたのである。自分自身の活動方針を協議する「社会的な脳」が機能していなかったことになる。同じことは自閉症者にもよく観察される。彼らは、いったん始めた行動にブレーキをかけたり、行動の方向を修正することが苦手な人たちなのだった。
・また、諸部分の連合体である人の脳は、内部に指揮官や議長にあたる部分を具えているに違いない。自閉症者がパニックの状態に陥りやすく、適切な行動を選べないのは、この部分ができあがっていないためと考えられる。
・「社会的な脳」は、実際の社会のシステムを投影しているに違いない。人間の子どもは、人の群れの中で生きるうちに、この社会の構造を脳内に徐々に写し込んできたと考えられる。だとすると、自閉症者たちに対する私たちの教育的な課題は、彼らを社会的な行動へ誘う中で、彼らの内側に次第次第に「脳における社会」を築いていくことであると思われる。
《感想》
・ここは、本書の終章・終末の部分だが、著者が冒頭で述べた《《「われわれ」の側の振る舞い方、コミュニケーションの仕方、内部世界の特徴》》と自閉症児・者との「共通点」を見出すことは、ついにできなかった。
・著者は、〈「今ここ」に支配された「私」を、もっと安定した「私」に引き継がせようとする背後には、統合者としての「私」が隠れているはずである。それは私たちの中にあって不断に活動する一つの「機能」であるに違いない〉と述べ、その「機能」の「場」を「脳の中」(前頭葉皮質の前頭前野)に求めている。そして、ルリアが観察した前頭葉損傷者の行動と自閉症児・者の行動に「共通点」があることから、自閉症児・者の前頭葉皮質にも、何らかの異変が生じていると「仮定」している。しかし、そのことは。現代の「脳医学」でも未だに「実証」されてはいない。自閉症児・者の前頭前野が「損傷」されているという証拠はないのである。言い換えれば、自閉症児・者の「脳の中」と「われわれ」の「脳の中」に決定的な「差異」は見当たらない、つまり《同じ》なのである。
・たしかに、自閉症児・者の「情動」は乏しいかもしれない。相手の心中を窺うことが苦手かもしれない。行動のプログラムを立てることが不十分かもしれない。しかし、そうした特徴は、「われわれ」の乳幼児期には、誰にでも見られる。自閉症児・者の「情動」がその段階にとどまったまま、身体・運動能力、知的能力(記憶能力)等々、他の領域が「年齢並み」に成長してしまった、ということである。では、なぜそのような事態が生じるのか。著者は、その要因を自閉症児・者の「内部」(脳)に求めているだけで、彼らをとりまく周囲の「環境」を見ていない。自閉症児・者の「情動」が乏しいのは、親の「養育態度」に因るかもしれない。著者は本章を〈「社会的な脳」は、実際の社会のシステムを投影しているに違いない。人間の子どもは、人の群れの中で生きるうちに、この社会の構造を脳内に徐々に写し込んできたと考えられる。だとすると、自閉症者たちに対する私たちの教育的な課題は、彼らを社会的な行動へ誘う中で、彼らの内側に次第次第に「脳における社会」を築いていくことであると思われる〉と結んでいる。私も「全くその通り」だと同意するが、要は「人間の子どもは、人の群れの中で生きるうちに、この社会の構造を脳内に徐々に写し込んできたと考えられる」という一点に絞られる。とりわけ、《人の群れの中で生きる》というとき、その「群れ」のあり方がまず問われなければならない。その「群れ」とは、単なる群衆(集団)ではない。親子、家族、友達という存在の間に、「愛着」という絆が結ばれて、はじめて「群れ」が成立するのだ。そのことは、ハーロウによるアカゲザルの「代理母実験」を見るまでもなく、斯界の専門家にとっては自明のことではなかったか。したがって、「彼らを社会的な行動へ誘う」ためには、まず彼らと「一対一」で向かい合い(対面ではなく寄り添う形で)、「愛着」という絆を結ぼうとする《決意》が(「群れ」の側に)不可欠なのである。彼らを「第三者」(自閉症児・者)として見るのではなく、「第二者」(あなた、君)として『好き』になることが大切である。その「情動」が、《彼らの内側に次第次第に》染みこんで、やがて、彼らもまた「私」を『好き』になるかもしれない。「私」の「社会的な活動」に注目し、真似しようとするかもしれない。そのことこそが、「彼らを社会的な行動へ誘う」唯一の基幹道路なのである。
・「自閉症」の要因は彼自身の「脳の中」にあるという定説に従う限り、自閉症児・者の「未来」(社会的な行動への道)は開けない。「人格障害」「統合失調症」「躁うつ病」「発達障害」「多重人格」「パニック障害」等々、多種多彩なレッテル貼りと同様に、「われわれ」との「距離」(溝)が拡がる(謎が深まる)だけではないだろうか。(2016.2.27)