梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

南無妙法蓮華経

 抜歯の抜糸も終了し、後は入れ歯を装着することになったので、当面の「身体的故障」はなくなった。でも吐き気、胸やけ、息切れ、動悸などによる不快感、長時間の起居や外出による疲労感・倦怠感は相変わらず持続している。そんな現状を知った旧友から電話が入った。「検査結果に異状はないか」「ない」「それでもシンドイのか」「シンドイ」「それならば、いいことを教えよう。毎朝と毎晩、東の方角に向かって手を合わせ『南無妙法蓮華経』と5分間唱えること、1週間続ければ必ず体調はよくなる」「なるほど、ためしてみよう」ということで、一昨日から始め今日で3日目になった。まだ変化は現れないが、それで不快感、疲労感・倦怠感を払拭できれば万々歳だ。「溺れる者は藁をもつかむ」「鰯の頭も信心から」と言われるが、それは「元気」な立場からの物言いで、「病気」の立場に立てば、当然至極のことだと受け入れられる。私はこれまで「南無阿弥陀仏」と唱えたことはあったが、「南無妙法蓮華経」は初めてである。両者にどのような違いがあるか。拝む対象(本尊)が、一方は「阿弥陀仏」であり、他方は「妙法蓮華経」だということだ。阿弥陀如仏は極楽浄土の如来であり、妙法蓮華経は「経典」である。「南無」とは「帰依する」ということで、平たく言えば「御すがりする(助けてくださいとお願いする)」ことだから、前者は阿弥陀如来にお願いし、後者は法華経にお願いするということになる。待てよ。そもそも「南無阿弥陀仏」という念仏は、臨終のとき唱えると、死後、極楽浄土に行けるという教えではなかったか。私の願いは不快感等の払拭だから、死後の行き先は関係ない。だとすれば、「南無妙法蓮華経」の方が相応しいことになるか。本来、病を治す仏には「薬師如来」もいる。「南無薬師仏」ではダメなのか。などと思いながら、題目を唱えていると、途中でアクビが出てくる。誠に不謹慎。それにしても5分間とは長すぎる。気持ちが入って、それが短かすぎると感じるようになれば、体調が改善されるかもしれない。  
(2019.1.13)