梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・39

【「私」から「私」への手紙】
《要約》
・私たちがいつも使っている言語一般こそは、今の「私」から別の「私」に向けて差し出される手紙まもだ。私たちの視覚や聴覚や触覚は、感覚器官によって入力される外部情報にもとづいているから「今ここ」の世界に支配されやすい。だから、それらの感覚に依存する限り、環境が一変すると、私たちのこころの状態も一変してしまう可能性がある。しかし、言葉は、今この時間やこの空間にないものも思い出させてくれるし、またそれらを通して未来の「私」に発信してくれることを可能にしてくれる。だから、どうしても忘れてはいけないことがあるときは、私たちは掌に印をつけたりして、(今の「私」から別の「私」への)伝達方法をとるのである。
・人格から人格へと受け渡されるもう一つの手紙は、言葉によって色づけられた感情である。言葉をもった人間は、他の動物とは比較にならないほど多種多様な感情をもつようになった。その結果として、今の「私」に支配されない「我慢」や「意志」や「躊躇」などの感情が発生したと考えられる。私たちがそれらの感情を感じるとき、私たちの耳もとには「後で後悔しないように」とか、「本当にそれでよいのか」などと、声なき声がささやかれているのである。
・自閉症者の場合には、感情と言葉との結びつきは、このように緊密ではない。感情は、時にはまったく不適切な言葉と結びついてしまうことがある。(気に入らないとき、課題がわからないとき、独り言を)言い出すことがある。これらの無意味な言葉は、私たちには無意味だが彼らにとっては意味があり、内部のモヤモヤとして捉えがたい感情につけられた個人的な名称だと考えられる。その名称を呪文のように唱えることによって、内部の混乱をいくぶんコントロールできることを彼らは自然に学んだのだろう。このような「呪文」を用いる自閉症者は、パニック場面で叫声をあげる者よりも自己コントロールが進んでいるということができる。
・一方、健常者のこころの中のパニックが、自閉症者のように外に現れにくいのは、もっと社会的な文脈に沿った言葉を選んで発しているからである。私たちが窮地に陥ったときに発する「困った、困った」とか「大変だ、大変だ」という言葉は、まわりの人にとってはわかりやすい悲鳴である。私たちはそうつぶやきながら、「今はそっとしておいてほしい」とか「もし名案があったら私を助けてほしい」という内容のサインをふりまいているのである。そのほか「頑張ろう」「だいじょうぶ」「まだ、まだ」「もう少し」など、感情が染み込んだ立ち直りの言葉を使いながら、自分を立ち直らせようとしている。
《感想》
・ここで述べられていることは、要するに「自閉症者の場合には、感情と言葉との結びつきは、(健常者ほど)緊密ではない」ということであろう。言葉の機能には、①感情の表現、②伝達の手段(コミュニケーション)、③思考の手段、④意思のコントロール、⑤記録などがある。自閉症児・者の「言語発達」をみると、音声よりも文字の習得の方が早かったり、感情よりも意味を重視した学習が強いられたり、といったケースがめだつ。特に、初期において、「喃語」「ジャーゴン」(無意味語)による《やりとり》が不十分であれば、「感情と言葉の結びつき」が緊密でなくなることは、当然の結果であると思われる。
・私たちの「独り言」は、言語の機能の③や④に位置づけられるが、自閉症児・者の「独り言」は、初期における「喃語」「ジャーゴン」(発声遊び)が、(①感情の表出が、②伝達の手段に結びつくことなく、)そのまま固定しまった結果ではないだろうか。
・著者は、「これらの無意味な言葉は、私たちには無意味だが彼らにとっては意味があり、内部のモヤモヤとして捉えがたい感情につけられた個人的な名称だと考えられる。その名称を呪文のように唱えることによって、内部の混乱をいくぶんコントロールできることを彼らは自然に学んだのだろう」と述べているが、健常者である私たちもまた、時と場合によっては、何かを「祈願」するために、あるいは自分の気持ちを安定・集中(コントロール)するために、《呪文》を唱えることがあることを銘記しなければならない。(呪文とはまさにそのためにある言葉なのだ)
・実を言えば、自閉症児・者は、《「われわれ」の側の振る舞い方、コミュニケーションの仕方、内部世界の特徴》と何ら変わることのない行動を示しているに過ぎないのである。そのことが、「今、ここで」はっきりしてきた、と私は思う。
(2016.2.26)