梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・33

《第8章 自閉症への教育的接近》
《要約》
【謎から係わりへ】
・自閉症者は、自分にとってわかりやすい小さななわばりの中で生きている。このなわばりを拡げることが教育の仕事ということになる。
【なぜ教育が必要なのか】
・彼らを彼らの安心できるなわばりの中に住まわせておくだけでもいいのではないか、という根源的な問いかけを投げかけてくる人もいよう。この問かけに対する充分に満足できる答は、実のところ持ち合わせていない。ただ言えることは、自閉症者も私たちと同じ生物的特質に従うべく生まれついているはずだ。障害によって受けた制限を放置しておけば、脳の発達にも身体の発達にもひずみが生じてくるはずである。
・もうひとつ言えることは、私たちの社会というものが変動性をもち、その一角で暮らす自閉症者の生活も例外ではないということである。彼をとりまく家族、学校、施設やその構成員に異状が生じれば、新しい環境への適応を余儀なくされる。だから、そのような事態への適応力を身につけておくことは、彼らが生きていくうえで必要なことなのである。


《感想》
・著者には、自閉症児・者が「小さななわばりの中で生きている」ように見えるかもしれない。しかし、本当は、「私たちと同じなわばり」の中で生きているのである。彼らは自分のなわばりから「一歩を踏み出せない」状態にあるだけだと、私は思う。では、なぜ一歩を踏み出せないのか。それは、出生以来、つねに「逃走」(回避)という行動パターンから脱出できないからである。彼をとりまく環境(人・物・場所)に対して、つねに「不快」「恐れ」を感じている。同年輩の集団から「遠ざかる」のも、新しい食べ物を口にしないの(偏食)も、学習場面を「避ける」のも、「根は同じ」、つまり「恐れ」という感情に支配されているからに他ならない。
・したがって、彼らの教育は「なわばりを拡げる」ことよりも、心中に生じているこの「不快」「恐れ」という感情を「軽減」「払拭」することに特化されなければならない、と私は思う。
・自閉症児に「教育が必要」な理由は、一般の子どもに「教育が必要」なのと全く同じであり、それ以上でも以下でもない。大切なことは、自閉症児には「教育以前に」必要なことがある、ということである。著者は、「彼らを彼らの安心できるなわばりの中に住まわせておくだけでもいいのではないか、という根源的な問いかけを投げかけてくる人もいよう。この問かけに対する充分に満足できる答は、実のところ持ち合わせていない」と述べている。その根源的な問いかけに対して、私は以下のように答えたい。
 彼らには「安心できるなわばり」などない。つねに、環境に対する「不快」「恐れ」を感じており、そこは、そうした外敵から、(かろうじて)自分を守る「待避所」に過ぎないのだ。もしかしたら、私たちの存在自体(私たちが彼らと向かい合っていること、私たちが彼らを見つめていること、彼らに話しかけていること)が、彼らの「不快」「恐れ」を増長させているかもしれない。だから、まず、その「不快」「恐れ」を軽減し、取り除くことが、教育のスタートでありゴールでもある。「彼らを彼らの安心できるなわばりの中に住まわせておくだけでもいいのではないか」という考えは、彼らの「不快」「恐れ」を見落としているばかりか、その状態を放置して「強いる」結果につながる、という点で同意できない。さらにまた、「不快」「恐れ」という彼らの感情を「無視」(脳の機能障害の問題に転嫁)して、社会の変動性に対する「適応力」を身につけさせようとすること(それが「教育的接近」の現状であろう)もまた、私には同意・納得できないのである。(2016.1.31)