梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・32

【関係についての感情】
《要約》
・ここまで述べてきたのは、一・二人称的な世界で起きる感情である。怒りも、恐れも、慈しみの感情も、「わたし」と「あなた」の間で起きるものである。しかし、感情が分化してくると、当事者の間で起きるもの以外にも多くの感情が発生してくる。
・嫉妬の感情は、幼児が自分の弟や妹の誕生後にたびたび示すものである。この感情は自閉症児には現れにくい。
・嫉妬とは、他者と他者の間の関係に対する感情である。その関係をつくる一項に自分が収まりたいのだが、それができないから、ある種の怒りを感じるわけである。
・私と目の前の人が友好的な関係だったり、楽しそうに遊んでいれば「羨ましさ」の感情が発生しやすくなる。
・このような状況では、自己の内部には不完全燃焼の感情が発生するから、その感情はかえって意識化されやすいものとなる。
・このような関係では「こころ」というものが意識の対象となりやすい状況にある。
・嫉妬や羨ましさの感情が現れにくい自閉症児たちは、「こころ」の存在を意識しにくく、「こころの理論」を構築しにくい。
・自分から距離のある人の中に「こころ」を想定して起きる感情の最たるものは「恥ずかしさ」の感情である。私を見つめる人は私に直接には何もしてこない。しかし、そこにある「こころの在りよう」を感じているからこそ、私は恥ずかしいのだ。
・自閉症者は、恥ずかしさを示すことが少ない。
・嫉妬にせよ、羨望にせよ、羞恥にせよ、私たちがそれを強く感じるのは、私たちの生きるこの世界が闘いの場だからである。人に特有ななわばりの拡張への意欲があればこそ、これら複雑な感情がつくられたわけである。
・これに対して、自閉症者とは、このような生々しい闘いの外にいる人たちである。だから、彼らの顔には、汚れのなさが現れているけれども、同時に、闘いからはじき出され、アウトサイダーとなった人の淋しさも現れているのである。
【感情のもつ持続性】
・現代社会では、感情はあまり高く評価されていないこころの働きである。感情的であることは愚かなことと同義語となってしまうこともある。怒りの感情は、怒りをもたらした情報が誤りだったと認知されてもすぐには引いていかないものである。
・これと違って、知能はまったく異なるこころの働きをする。ピアジェは、知能の特性をその可逆性に求めている。知能があまり発達していない段階では、丸い粘土をせんべいのように平たくすると、その量は増大したと考えられるが、発達した段階では「元に戻せば同じ」と可逆的に判断できるようになる。
・知能は非常に切り替えのよい働きをする。現代社会では、非可逆的で融通のきかない感情よりも知能のほうが歓迎されやすいのは当然といえる。しかし、感情は知能を支える土台のような役割を果たしているはずなのである。
・知能とは、問題が解決され、役割を終えるとすぐ立ち去ってしまうこころの働きである。ところが困難な課題は次々と待ち伏せしているから、目的を達成するためには次々に知能を駆使する影の力が必要だが、それが意志と呼ばれるものである。意志とは、目標とするものを手に入れようとする強い欲求と知的な経験が結びついたこころの働きである。このように、感情は世界との永続的な関係を作る原動力となっている可能性が強い。感情自体がしつこく、すぐには消え去らない性質をもっているからである。
【感情と創造性】
・感情を生み出す深部の脳と行動プログラムを生み出す前頭葉の間には、密度の濃い神経繊維の連絡が認められる。人の脳のこのような構造は、感情が行動のプログラミングというきわめて高度な知的働きにも関係していることを示唆している。
・ヒトという種は、なわばりを際限なく拡張していく動物であり、それに応じたおびただしい数の行動プログラムを必要とするようになったに違いない。
・自閉症者は、なわばりを拡張しようとしない。欲する対象の世界を限定している。
・文明化された社会では、自分でプログラムをつくる必要がないと感じさせるほど、多くのプログラムが用意され、分厚いマニュアルとなって街中にあふれている。そのマニュアルをクールに高速に読みこなす者ほどカッコよく見える。
・しかし、創造的な活動が要求される芸術や科学の世界では、マニュアルは用意されていない。自分自身でプログラムをつくっていく作業は、感情が渦巻くホットな世界であり、失敗だらけのカッコ悪い世界なのかもしれない。
・かつて人類の一人一人は、道案内のない荒野で、いつでもこれと同じような悪戦苦闘を繰り返してきたのではないだろうか。その闘いの中で、いま私たちの脳の中に見られるプログラムの領域がつくられてきたものと考えられる。
【感情のファジィ曲線】
・感情には、「持続的である」という特性の他に、もう一つ、「少しずつ変化する」という特性が具わっている。
・感情にはいろんな名前がついている。怒り、喜び、悲しみ、憎しみ・・・。しかし、それにどんなにたくさんの形容詞をつけてみても、現実の感情のもつ微妙な変化の色合いを表すことはできない。感情は連続的に変化するものであるのに対して、言葉はそれを大きく括って記号的に表現するものであるに過ぎないからだ。感情はもともとアナログ的な存在だが、言葉に代表される知的表現はデジタル的な表現様式をもつものなのである。
・私たちは、アナログとデジタルの二つの様式を利用しながら、自分の内部、外部の世界をキャッチしているが、自閉症者の場合は、感情がまだアナログ的に徐々に変化するところまで育っておらず、他人の中にもそのような変化を認めることがむずかしいようである。
・自閉症者は他者と視線を合わさない、または瞬間的にしか合わさない。彼らは相手の表情をその変化において見るのでなく、記号として見ている可能性が生じてくる。彼らにとって、怒りの表情は赤信号で、優しい笑みは青信号なのだろうか。
・映画「レインマン」の中には、感情のアナログ的な作用に関係のある一つの重要な場面があった。レイモンドが「青」から「赤」に変わった信号機を認めて、横断歩道の中程で立ち止まってしまう有名な場面である。
・私はファジィ理論を応用したグラフを示し、赤信号といえどもただ「止まれ」と言っているのでなく、10メートルの道路に入ったばかりのときの停止信号の命令の強度は最高レベルに近いけれども、向こう側に近づけば近づくほど命令の強度は0に近づくのだが、レイモンドは、信号機のこのようにアナログ的に変化する意味合いを捉えきれずに「赤信号」→「止まれ」とデジタルに理解してしまったわけである。
・このグラフのファジィ曲線は、命令の強度を表しているが、別の見方をすると、恐怖の感情の変化を表しているとも考えられる。停止信号となってから渡る道路の距離が長ければ長いほど、側面から接近してくる車に衝突する可能性は増大する。それはそのまま、恐怖の増大として感知されるに違いない。感情は、少しずつ変化するものを感じ取るにはもってこいのセンサーの役割を果たすものである。私たちは、横断歩道や一般道路を渡るたびにこのような感情的な経験をしているために、いつしか頭の中に、結果的には「きれいな」恐怖の度合いの変化を表す曲線を描くようになったのではないだろうか。
《感想》
・ここで述べられていることは、要するに、①怒りと恐れという原初的な感情は、「嫉妬」「羨望」「羞恥」という《関係についての感情》に分化していくが、それらの感情は自閉症児・者には現れにくい。②それは、「こころ」の存在を意識しにくく。「こころの理論」も構築しにくい状態にあるからである。③感情には持続性があり、それが意志(欲求)となって、(様々な困難を解決したり、目標を達成するために駆使する)知能の土台(原動力)の役割を果たしている。④自閉症者は、なわばりを拡張しようとしない。欲する対象の世界を限定している。⑤感情には「少しずつ変化する」という特性もあり、それが表情に表れるが、自閉症者は相手の表情を、その変化において見るのではなく、「記号」として見ている可能性が生じてくる。の5点であろう。
・筆者は「感情を生み出す深部の脳と行動プログラムを生み出す前頭葉の間には、密度の濃い神経繊維の連絡が認められる。人の脳のこのような構造は、感情が行動のプログラミングというきわめて高度な知的働きにも関係していることを示唆している」と述べており、
②④⑤の原因として、自閉症児自身の《「深部の脳」と「前頭葉」を連絡する神経繊維の不具合》を想定していることが窺われるが、はたしてそうか。
・私の孫(5歳)は、母親が甥(7歳)と親しく会話し世話をしている場面で、激しく甥に「つかみかかった」という。また、父親と姉(16歳)が話を始めると、嫌がって大騒ぎするという。私自身も父親と話を始めようとすると、必死に遮るように「泣き出した」。明らかに「嫉妬」の感情が芽生えていると思われるのだが・・・。大切なことは、そのような場面のとき、周囲の者がどのように反応するか、どのように孫と係わればよいか、という点である。その場面は、孫の《関係についての感情》を育てるための恰好の機会であり、歓迎し、頻回繰り返すべきである。筆者は「嫉妬とは、他者と他者の間の関係に対する感情である。その関係をつくる一項に自分が収まりたいのだが、それができないから、ある種の怒りを感じるわけである」と述べている。したがって、母親と甥、父親と姉、私と父親という「関係をつくる一項に」孫を収めることが、肝要なのである。
・しかし、両親は、孫の「怒り」や「嫉妬」の感情を、あまり歓迎していないように見受けられる。そのような場面を、あらかじめ「回避」しているようである。そのような対応(環境)が、芽生えつつある感情の分化を「妨げることにならない」と断言できるだろうか。自閉症児の問題は、「環境」によっても「生じる」一例ではないか、と私は思う。(2016.1.19)