梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・34

【生活の立て直し】
《要約》
・自閉症者は、早い時期から社会のさまざまな状況に適応できるように、種々の学習に取り組んでおくことが望ましい。
・自閉症者を受け入れるにあたって、私たちはどのような準備をしておいたらよいのだろう。また、自閉症者は、どのような順序を経て私たちの世界に入ってくるのだろう。
《感想》
・自閉症者が社会のさまざまな状況に適応できるようになるために大切なことは、彼みずからが、「自発的」に、種々の学習に取り組めるように「支援」することである。そのためには、まず彼自身の「回避」(学習場面からの逃走)行動をコントロールしている「不快」「恐れ」の感情を取り除かなければならない。それが「快感」「安心」に変わり、学習の出発点である「興味」「関心」「好奇心」に移行していくような「係わり方」を、私たちは追求しなければならない。
・自閉症者は、生後間もなくの「不快」「恐れ」を払拭し、家庭(両親)という《安全基地》に見守られながら、好奇心を芽生えさせ、周囲の人々を《好き》になり、その言動(表情・音声・立ち振る舞い)を《模倣》するという「順序を経て私たちの世界に入ってくる」のである。その道筋は、一般の乳幼児と何ら変わるところはない。


【場所の意味と事の順序をつかませる】
・養護学校の経験では、私は、学校や学級のカリキュラムの流れに引き込もうと、自閉症児を追いまわしていたにすぎないところがあった。デイ・ケアの活動でも私は、計画した集団活動の渦の中に誘い込もうと、ともすると別行動をとる自閉症児を引き寄せることに熱心だったような気がする。しかし、私たちが計画した指導プログラムは、一人一人の自閉症児には実質的な影響を及ぼすことが少なく、指導者の頭の中だけの虚構として働くことが多かったのではないか、と思われるのである。
《感想》
・ここで述べられている、著者の「反省」に、私は全面的に同意する。要するに、指導者は、まず「集団」を準備し、その中に自閉症児を入れようとする、しかし、「回避」行動を基本とする自閉症児にその方法は通じない。彼の「不快」「恐れ」という感情を無視して、指導者の「思い」(虚構)を強制しているに過ぎないからである。指導者は、自閉症児が「別行動」をとる意味を理解できないまま、「指導しなければならない」という使命感だけが先行する、その結果「実質的な影響を及ぼすことがすくなく・・・」という状態を脱することができなかったのである。


*F君の事例(著者の個別指導)
①私はテーブルの上にいくつかのオモチャを置いてみたが。F君はそれらをまったく無視し、研究室内の物品に次々と触りながら、うろうろするばかりだった。私が近づいて話しかけたり、オモチャをいじってみせたりすると、彼はその場をスッと離れてしまうのだった。
②F君はカレンダーや文字カードに興味を示すことに、私は気づいた。カレンダーのカードや単語の文字カードを途中まで並べてみせると、F君はその続きをつくるようになった。回を重ねるうちに、F君にとって、私の研究室は目当ての活動を行う場所に見えてきたようだった。
③F君は好きなことだとすぐに完成させてしまい、後が続かなかった。そこで、私は学習のメニュー・カードをつくり「きょうは何から始めよう」「今度は何をしよう」「これはもう終わったね」と確認しながら、活動がつながっていくようにした。
④この視覚的な道案内を発展させて、学習予定板や行動メニュー表を作成した。これを用いて、順序を確認しながら進めると、手がかりがない場合よりも活動がつながりやすくなる。学習中、メニュー表を時々提示することによって、「一緒にやるのはこの範囲のことだよ」と安心させたり、「次は何をしようかな?」とメニューとして表された行動の選択肢を見ながら、学習の流れを確かめていった。
《感想》
・著者は、ここで、F君の学習は「後が続かない」ことに注目し、その「活動がつながっていくように」することを課題にしている。そのためには「学習予定板」「行動メニュー表」といった視覚教材(学習案内)が有効だったと述べている。
・しかし、私には①に記されているF君の行動特徴のほうが興味深い。F君は、研究室という初めての場所に、多少の「恐れ」を抱きながら、周囲の事物を「探索」している。著者は「うろうろするばかり」と評価しているが、その一つ一つの行動の中には「回避」と「接近」が入り混じった「葛藤」が窺われる。指導者が「近づいて話しかけたり・・」すると、「彼はその場をスッと離れてしまう」という《係わり方》も興味深かった。通常なら「ここは何をする部屋?」「おじさんは誰?何をするヒト?}「どうして机の上にオモチャがあるの?」などと問いかけて、自分の「恐れ」の感情を払拭する場面だが、F君はそれをしない。(できないからしないのか、できてもやろうとしないかは不明である)
②では、F君の「恐れ」は、カレンダー、文字カードといった物品によって、次第に軽減され、「興味」「関心」「好奇心」に変わっていったことが示されている。しかし、それが《長続きしない》。著者は、③でそのことを《問題視》しているが、はたしてそうか。「行動プログラムがたてられない」のが自閉症児の特徴であるという見解からすれば、当然のことであろう。私は、著者が④で 、図らずも(?)〈学習中、メニュー表を時々提示することによって、「一緒にやるのはこの範囲のことだよ」と安心させたり・・・〉と述べていることに注目する。つまり《安心させたり》という係わりが重要なポイントになるのだ。物品はF君に「話しかける」ことはない。だから《安心》できるのだと思う。大切なことは、F君が指導者(著者)の存在(見守ること、見つめること、話しかけること、手助けすること)自体に《安心》できるようにすることだと、私は思う。行動のつながりを物品の助けを借りて可能にすることよりも、「この人なら安心だ」「この人は面白い」「この人が好きだ」「この人のようになりたい」という「感情」(の共有)によって実現することはできないか、そのことを指導者は探究し続けるべきではないだろうか。
・著者の取り組みによって、F君の「学習活動」が活性化したことは素晴らしいと思う。しかし、そのことによって、F君の「恐れ」という感情、自閉的行動特徴(自閉症状)が軽減・払拭されなければ、「教育的接近」にはならないのではないだろうか。
(2016.2.2)