梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「・・・アア キモチワルイ」

 若い頃「・・・アア キモチワルイ」を連発したのは二日酔いの時だったが、今では日常茶飯事の口癖となった。朝から晩まで「吐き気」が襲ってくるからだ。それに「腹部膨満感」「息切れ」「動悸」「めまい」「胸部の疼痛」が加わることもある。「急性心筋梗塞」の手術後、半年が経過、主治医の診察では「異状なし」ということだが、それは血液検査と、心電図検査の結果に過ぎない。彼は患者の「数値」にしか関心がないようで、こちらの不快感に関しては、ほとんど説明しない。「吐き気」に対しては「胃カメラ検査」を勧め、血圧が高ければ降下剤を処方する。誠に「理にかなった」判断で、異論はない。要するに、「アア、キモチワルイ」の原因は不明だということになる。
 そこで、どうすればよいか、考えた。まず第一に、「全身に361個ある」といわれる「経穴(ツボ)」のいくつかを刺激して不快感を軽減する。今はまだ、手指も動く、圧す力もある、刺激すれば効果がある、という状態なので希望がもてる。第二に、もし、不快感が軽減されなくても、がっかりしない。不快感を感じるのは、生きている証である。まだ「生命の火は燃えている」と安堵すべきことなのだ。第三に、不快感以外の感覚を楽しむことが肝要である。発熱はない。頭痛もない。口から食べられる。味覚もある。呼吸も自力でできる。目も見える。耳も聞こえる。匂いも感じる。声も出せる。言葉も話せる。自力で歩ける。「まだできること」を数え挙げて喜べばよい。そのことを感謝すればよい。第四に、余計なことは考えない。特に「これからどうなるか」、未来のことに思いを巡らすことは禁物だ。誰にもわからないことを考えることは無駄である。ものごとは「なるようにしかならない」と思って「成りゆき」に身を任せることがよい。もう十分に生きたのだ。後は野となれ山となれ、諸行は無常であることを思い知れ。要するに、力を抜いて、気楽にのんきに暮らすのだ。第五は、寝ること、眠ること。もはや16時間の起居、8時間の睡眠というサイクルは無理である。摂取したエネルギーに応じて、小刻みな休養が不可欠になる。生命の火が消えることを「永眠」というではないか。「安眠」から「永眠」へ、そのスムーズな移行を図るべき時が来たのである。特に「昔の夢」を映画のように楽しみながら「END」を迎えられれば最高だ。第六は、最後の確認。死後の世界は存在しない。地獄も極楽も、生きているから味わえる。生きている世界を此岸、死後の世界を彼岸と分別することは誤りだ。此岸とは娑婆(煩悩の世界)、彼岸とは浄土(悟りの世界)のこと、私たちは、否(少なくとも)私は、至難のことであることは重々承知のうえで、『生きているうちに』彼岸に辿りつくべきだと思うのである。(それが余計なことであることも承知している。此岸のままで「永眠」することは必定か!) 
(2018.12.27)