梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)再読・10

《第3章 自閉症の行動世界》
《要約》
【行き先についての謎】
・自閉症者の動きは特有である。一挙手一投足がどこか私たちとは違う。違うことはわかるが、どのように違うかは実はよくわかっていない。彼らは、私たちの目の前を横切り、どこにいこうとしているのだろう。その行き先をこの章では追求してみることにする。
【異星人たち】
・自閉症児の父親であるAさんは、息子さんにまつわる驚きの経験を話されてから「まるで宇宙人と一緒に暮らしているようなものです」と結んだ。エリーの母も、娘をこの世の人ならぬ「妖精」にたとえている。
・自閉症者を動かしているのが、宇宙人からの信号でないとしたら、その発信源はどこにあるのだろうか。それを突き止め、私たちの手で信号をコントロールすることができたら、彼らにこの星の住人らしい行動を育てることができるかもしれない。
【選択肢を立てられない】
・ところで、私たちが自閉症児の行動を理解できないのと同じく、彼ら自身も自分の行き着く先を理解できないのだと考えてみたらどうだろうか。 
・私たちは、何をするか、どこに行くか、たえず自分自身に尋ねながら行動している。そして問題にぶつかると、いろいろと案を出しながら、もう一度行き先を確認する。行動のプログラミングと呼ばれるこの過程が自閉症児には欠けているのではないだろうか。
・「何をしたいの?」「どこに行きたいの?」自閉症児は、このような質問に答えることがまったく苦手である。それは、質問を無視しているのではなく、それに答えるプロセスを頭の中で実現できないからだ。「パズルをする?」「パン屋さんに行く?」と具体的な選択肢を与えてやると、答えることができる者が多くなるのである。
・選択肢を立てて選ぶことができないために生じるトラブルは、自閉症児がぶつかるいろいろな局面で現れる。(事例)I君は、家や学校でつらいことがあると、大学での学習に響きやすい青年だった。ある日、I君は落ち着かず、学習のほうもなかなか進まない状態だった。私が「今日はこれでおしまい。家に帰ります」と宣言すると、彼はいったん学習の手を止めかけるのだが、再び学習を開始しようとする。「今日は終わり」と再三声をかけるのだが、彼はときどき叫び声を上げ。怒りで教材を小突きながらも学習を続けようとするのだった。I君は、このとき同時に二つの信号を受け取っていたのだ。目の前の教材からは「続けろ」という、私の口からは「やめろ」という。それぞれに対して反応してしまい、揺れ動いていたのだ。それら二つの信号を付き合わせ、自分の行動を一方に「決める」ことができない。この「選んで、決める」という心の働きを身につけることは、すべての自閉症児にとって苦手なことなのである。しばらくして、私はやっとこの場を脱するための妙案を思いついた。「あと三回やったら終わりだよ」。一回、二回、三回。はい終わり。これで、やっと息の詰まるような数分間が終了した。
【道順へのこだわり】
・けれども、反対に、自閉症児はプログラムを作るのが得意であるように見えることもある。(例・外出時の道順、予定外の行動を拒否する、給食を食べる順序、帰宅後の過ごし方の順序などについてのこだわり)
・しかし、彼らがこだわっているのは、自分自身が創造したプログラムではないように思える。彼らの敏感なこころの内側に最初に飛び込んできた刺激から強い印象を受け、以後は、それにもとづいて行動を決定していく傾向があるようだ。しかも、その最初の刺激は親や教師が意図的に与えたものではない場合がほとんどだ。
・道順や順番へのこだわりは自閉症児のすぐれた記憶力の所産であって、プログラミングの所産ではない。本当のプログラミングとは、状況に合わせて行動計画を変更できるところにこそ、その真髄がある。自閉症児はプログラムをつくることが苦手だからこそ、道順や順番のプログラムをよりどころとし、堅持しようとする態度が生まれたと考えられる。
・だが、自閉症者の行動の問題をもと根本のところから考えてみるためには、人や動物の行動の成り立ちの問題にまでさかのぼってみる必要があるだろう。
《感想》
・筆者は、自閉症児を「静画写真」では見分けられないが「動画画像」にするとわかるようになる、という。それは「自閉症者の動きは特有である。一挙手一投足がどこか私たちとは違う」からだが、しかし「違うことはわかるが、どのように違うかは実はよくわかっていない」とも述べている。それは、筆者が自閉症児・者を「第三者」として、客観的に観ているからに過ぎない。私の独断・偏見によれば、自閉症者の動きは特有ではない。一挙手一投足は、私たちと「少しも」変わらない。彼らの行動は、誰もが「かつて」行ったことがあり、また、今でも「時と場合によれば」行っている「自然な行動」である。
・したがって、彼らを「異星人」呼ばわりし、「彼らにこの星の住人らしい行動を育てることができるかもしれない」などと考えることは、甚だしい「人権侵害」であり、僭越の極みである、と私は思った。(同様の見方の代表は、門野晴子著「星の国から孫ふたり」)
・著者はまた、「ところで、私たちが自閉症児の行動を理解できないのと同じく、彼ら自身も自分の行き着く先を理解できないのだと考えてみたらどうだろうか」と述べているが、その仮説は、「私たちが自閉症児の行動を理解できない」理由を「彼ら自身も(自分の行き先を理解できない」ことに求めてようとしているという点で、私は同意できない。「私たちが自閉症児の行動を理解できない」のは、私たち自身の責任であり、《私たちが理解できないのはなぜか》というテーマにこだわるべきではないだろうか。その原因を相手に求めようとすればするほど、謎は深まり、袋小路に迷い込んでしまう、と私は思う。
・著者はさらに、自閉症児が「行動の選択肢を立てられない」根拠として、「何をしたいの?」「どこに行きたいの?」という質問に答えることが苦手であることを挙げているが、「パズルをする?」「パン屋さんに行く?」と具体的な選択肢を与えてやると、答えることができる者が多くなるとすれば、単に「何を」「どこに」といった疑問詞の理解が不十分だったために答えられなかった、とも考えられる。私の独断・偏見によれば、自閉症児は、「行動の選択肢を立てられない」のではなく、「行動しない」ことを選択しているのである。彼らは「彼らの敏感なこころの内側に最初に飛び込んできた刺激」によって、「行動しない」(つまり回避する)というプログラムを「創造」しているのだ。それは「君子危うきには近寄らず」という諺にもあるように、誰もが危険回避のために活用しているプログラムに過ぎない。
・またI君の事例は、(学習を)「止めるべきか」「進めるべきか」といった問題に当面し、進退窮まったという、《誰にでもある》「葛藤」場面であり、「選んで、決める」(折り合いを付ける)能力は「個人差」の「程度問題」に過ぎないのではないか。それが、「自閉症特有の行動」だと断定することは、(私には)とうてい、できないのである。
・本節末尾の「だが、自閉症者の行動の問題をもと根本のところから考えてみるためには、人や動物の行動の成り立ちの問題にまでさかのぼってみる必要があるだろう」という、著者の指摘には、十分肯ける。期待を込めて読み進めたい。
(2015.11.19)