梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・37

4 文章に見られる特殊な表現構造
 字数を制限された場合は、特殊な文章が使われる。
● 六ヒユケヌヘンマツタロウ
● 売邸渋谷南平台環良地一一二付建坪二六坪七五瓦水完交通便手入不要即安価面談仲介断48二0六0木村
 この電報の「ヘン」は返事、案内広告の「瓦」はガス、「水」は水道、「即」は即金と読者はすぐに理解できるが、これら以外ではこのような略語は通用しない。この文章の中では文の形式は否定されているが、内容的には保存されており、文は文章に中に止揚されているといえる。
 文章に中には、「かけことば」といわれる技法がある。小野小町の、
● (花の色)はうつりにけりな徒にわが身世に(ふるながめ)せしまに
 は自然における「花の色」「降る」「長雨」と作者における「容貌」「経る」「眺め」との二つの意味を持ち、読者が作者の二つの立場に立って内容を理解してはじめて文章の完全な理解に到達することができる。 
 普通に散文とよばれる文章は、まず文節あるいは段落とよばれる一区切りの部分に展開され、行をかえてさらに次の文節が展開し、いくつかの文節が一つの小見出しを持つ「節」となり、その「節」がいくつか集まって「章」となるという、立体的な構造をとっている。この小さな区切り大きな区切りは、対象の性格により、あるいは認識の性格によって、規定されてくる。その区切りは、作者にとって、読者にとって、大きなかたちでの立場の飛躍あるいは立場の移行を意味しているのである。事件の進行を追うかたちの文章では、空間的時間的な条件を基準にして区切りがつけられ、時間的に「明治篇」「大正篇」にわけられたり、空間的に「江戸の巻」「京の巻」にわけられたりする。科学書で「総論」「各論」という区切りをしているのは、認識の性格において、全体の普遍的な把握と個々の特殊的な把握とにおいてわけられている。内容の展開をどう構成するかについて、①まず事件がはじまり、②発展し、③クライマックスに達し、④急転して解決にみちびかれるという四つのかたちを考えるやりかたは、ヨーロッパの劇作においても、また中国の詩作においても見られ、「起・承・転・結」などという言葉で示されている。
 鑑賞を目的とする文章は、類型的になると「月並み」とか「紋切り型」とかいう非難を受けるが、実用を目的とする文章ではいろいろなタイプ化が行われ、普通の文章とは似ても似つかぬ型式をとる場合がある。社会的な慣習としての文章のタイプ化を書式とよぶ。官庁団体などに提出する各種の届書、学校の証書・賞状、会社の定款・決議・個人の履歴書・契約書など、一定の書式をとることが要求されている。また、表解として、カタログの定価表、料理の献立表、学習時間表、列車時間表、貸借対照表、調査表、統計表など、多種多様の形式をもつ文章表現が盛んに使われている。これらの表を文章と呼ぶことについては異様と感じるかもしれないが、理論的には文章以外の何ものでもない。それらの大多数が題名を持っていることも注意する必要がある。    
【感想】
 ここでは「文章に見られる特殊な表現構造」について述べられている。電文や新聞広告など字数制限がある場合には、文を極端に省略した表現が行われること、「かけことば」という表現技法があること、文章は「節」「章」「篇」などによって立体的に構成されること、また「総論」「各論」「起承転結」といった展開で表現されること、社会的慣習としての書式があること、「表」による表現も文章であることなどが、わかりやすく説明されていた。 
 以上で、「日本語の文法構造」の「章」は終了する。時枝誠記の「国語学言論」に比べて、その差異よりも「共通点」の方が多かったような気がする。著者の唯物論的な立場から、時枝の「言語過程説」を超えるような「文法論」の真髄とは何か。時枝の観念論にはどのような「限界」があるのか、もう一度、読み直して確かめてみたいと思った。
(2018.2.26)