梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・38

第五章 言語と社会
1 言語の社会性
【要約】
 言語についての基本的な考え方のちがいは、言語の社会性についての理解に大きな影響をもたらす。頭の中に抽象的にとらえられた表現上の社会的な約束を「言語」あるいは「言語の材料」と考えるなら、言語はどこまでも思想をつたえる道具として理解されることになる。これに対して、個々の具体的な表現だけが言語であると考える立場では、文学の背後に言語があるという説明はしりぞけられ、《言語のひとつのありかたが文学である》という結論がでてくる。
 言語は社会的な性格を持っている。言語の社会性は、表現の前にも後にも考えられなければならないし、表現の前の社会的な制約は対象→認識→表現のすべての面について云えることなのである。ある種の事物に対しては、風俗上からあるいは政治上からそれを語ったり書いたりすることが禁止されている。のべた人は刑罰を受け、書かれた文章は発売禁止になる。率直に語ると圧迫を受けるような場合は、「遠回し」に話したり、たとえ話や反語を使ったりする。隠語、暗号(患者の前での医学用語など)も使われている。表現を大衆化することは、印刷機や放送機が必要であり、出版会社や放送局の持主が社会的にどのようにあるかがマス・コミュニケーションの性格に大きく響いてくることにもなる。
 言語は社会の制約の下につくりだされるばかりでなく、このつくりだされた言語は社会をつくりだし社会を動かしていく。すぐれた作家の日記やすぐれた思想家の手紙は、それ自体がすぐれた文学すぐれた論文の性格を持つものとして、多くの読者に大きな影響を与えている。
 これまでの文学論は、文学観の面においても、社会性の面においても、偏狭だったように思われる。すぐれた作品だけが文学の名に値するとかいう芸術観、文学観ではなく、芸術の中にすぐれたものとくだらないものがあり、文学の中にすぐれたものとくだらないものとがある、と考えなければならない。芸術か否か、文学か否かは、客観的に、その事物自体の性格に基づいてきまっているもので、作品の優劣の価値判断からきまるものではない。鑑賞の対象となる言語表現なら、小学生の綴り方でも、新興宗教の教義でも、青年の生活綴り方でも、大衆小説でも、紙芝居の説明でも、落語でも、すべて文学の一つとして扱われなければならない。これらの果たしている社会的な役割も、文学の社会性として、歴史の中に正しく位置づけられなければならない。特殊なすぐれた言語表現だけが文学であり、その鑑賞者だけが文学の愛好者であると考える偏狭な態度を捨てなければならない。 翻訳文もまた社会的な役割を果たす。読者の言語表現に影響を及ぼしていく。外国の言語表現における習慣が、翻訳文によって日本語の表現にもちこまれることになる。外国語の論文が個人崇拝の経典主義でつまらぬことまで多くの引用で書かれているときは、それを金科玉条として読んでいる人たちに「伝染」して、似たかたちの論文を書くことにもなる。
【感想】
 ここでは「言語の社会性」について述べられている。この場合の社会性とは、言語が社会からの制約を受けながら、社会に影響を与え、社会を動かしてい面があるという意味であろうか。言語と社会とは「切っても切れない関係がある」ということだろうか。
 なるほど、私自身の言語は乳幼児期から現在に至るまで、社会から様々な影響を受けてきたと思う。紙芝居を「カジミマイ」、共産党を「コーサントー」と言って周囲の大人から笑われた昭和20年代を皮切りに、「太郎花子国語の本」に親しんだ小学校時代、国木田独歩の「春の鳥」、山本有三の「無事の人」、下村湖人の「次郎物語」を通して文学の魅力を知った中学時代、山村暮鳥、南江二郎、福田正夫、萩原恭次郎らに触発されて試作を始めた高校時代、時枝誠記の講義を受講し、花田清輝の「文体」を猿真似し続けた大学時代、成人後は「実践記録」「翻訳論文」から学び、官公庁の起案文、依頼文、通達文等々、没個性的な作文に終始し続けた現職時代・・・、そして駄文の山を綴り続ける現在まで、すべてが社会の影響を受けた言語活動だといえるだろう。 
 著者は、これまでの文学論が「偏狭」だったと批判し、「すぐれた作品だけが文学の名に値するとかいう芸術観、文学観ではなく、芸術の中にすぐれたものとくだらないものがあり、文学の中にすぐれたものとくだらないものとがある、と考えなければならない」と述べている。その一言で、私自身は救われたような気がする。大学では文学部に属し「国文学」を専攻したが、およそ文学とは無縁の生活を強いられたように感じていた。しかし、私の場合、文学の中の「くだらないもの」に類するのだと考えればよい、ということがわかった。まず言語があるところには「すべて文学がある」と考えるのが、客観的(唯物論的)な文学観なのかもしれない。(2018.2.27)