梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・36

3 文章といわれているものの本質
【要約】
(a) ああ。(感嘆)
(b) 火事。(呼びかけ)
(c)起立。(命令)  
 これらは一語文である。これらのほかに、一語文でありながら、それ自体がぬきさしならぬふさわしい表現と考えられているものがある。それは文章の《題名》である。
● 土(長塚節) 家(島崎藤村) 波(山本有三) 泉(岸田国士) めし(林芙美子)● あり(落語) のめる(落語) If(戯曲)
 これらの一語文は、すべて本文の文章と密接な関係を持っている。文章が文とちがった特殊の法則性を持っていることと、題名を持っていることとは、何か内面的な結びつきを持っているのではないかという想像がでてくる。
(d)春過ぎて夏来たるらし①白妙の衣ほしたり天の香具山②
(e)荒海や①佐渡に横たふ天の川②
 これらは①②の二つの文から構成されている。①の文が前提となって②の文がでてきた。形式的にはそれぞれ完結した文だが、これらは全体の一部として互いに依存しあっている。これらの全体は文を超えたもの、すなわち文章である。
(f)ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ
(g)何となく明日はよき事あるごとく思ふ心を叱りて眠る
(h)朝顔に釣瓶取られて貰ひ水
 のように、全体が一つの文である場合も、やはり(d)(e)と同じように短歌や俳句としての全体の統一性を持っているので、これは文のかたちを持っている文章、すなわち《一文文章》だということになる。文論から文章論へすすむときは一文文章がなぜ文章とよばれなければならないかを正しく説明しなければならない。
 まず、文章の構造から考えてみる。時枝氏の文章構造の分析は、もっとも重要な役割を果たすものとして、接続詞と代名詞をあげ、これらは「建築物における廊下や階段にもひとしい任務を持っている」(時枝誠記・「日本文法・口語篇」)と説明している。廊下や階段の任務は、当然人間のありかたと結びついてくる。廊下は同じ平面での人間の移動を、階段はちがった平面への人間の移動を規定づけるためにつくられている。
 時枝氏自身の文章の一部を例にとってみる。
● 「言語」を使用する処に「言」が成立するのである。①(これ)はソシュール理論の当然の帰結である。②
 ここで使われている「これ」はさきの文の思想を対象として、あとの文と結びつける階段のような役割を果たしている。①②ともに同じ話し手によって表現されているが、①の部分はソシュール学派の人に立場に立ってその主張を代弁したものであり、時枝氏はそのあとでソシュール批判者としての本来の自分の立場に立ってさきの自分の思想を対象として「これ」と把握し表現したのである。
● 《「   」のである① これは》である②
 個々の話し手の文をあちこちから勝手によせあつめてならべても、文章にはならないが、対談、座談会、討論会などの記録は全体が一つの文章として扱われている。それぞれの文の話し手は、立場こそちがっているが、さきに語られた文を対象としてそのないようを理解し、それを前提として次の人が表現する点で、文と文との間に内的なつながりが存在しているからである。討論では、
● (そんな)ことはないさ。(その)意見はまちがいだ。(それ)はおかしい。
 などのように、つながりが表現面にうかびあがって、代名詞が使われるのは当然だが、● 異議なし。絶対反対だ。
 なども、さきに行われた表現を対象として理解した上での賛成であり反対だから、内面的なつながりがあり、文章の一部を構成している。
 文章に中で、階段的な役割を果たす語は代名詞に限らない。
(i)・・・。・・・。以上は私の意見である。
(j)以下私の意見を述べてみる。・・・。・・・。
 などのように、何十何百という文の集団を「以上」で集約したり、「以下」で展開したりすることも行われている。そして、(j)を、
● 私の意見 ・・・。・・・。・・・。
 のかたちに書きなおすと、ここに題名とよばれるものが独立することになる。
 この事実は、題名とよばれるものの背後には、文章全体をつらぬく統一的な性格について集約し統合した認識(本文とは異なった立場に立って把握された認識)がひそんでいることを示している。
 論文・小説・詩・綴方・報告など、みな題名を持っている。俳句では季語、季題というかたちで、文章そのものの中に題名がふくまれている。
 およそ文章とよばれるものは、その長短にかかわらず、題名を持っているか、題名をあたえるにふさわしい性格をもつものに限られているのである。
 文章の本質・文章独自の統一性は、《題名として表現されるような集約された思想》が、《骨組みとなって全体の表現が展開する》ところにある、と考えられる。
 「わたしにはこんな仕事はむきません」も、俳句と同じ五七五の十七字文だが、これは文法的な表現のタイプで直観的に現実をとらえただけのものである。集約された思想が表現全体に展開され、そこに統一性を与えているような、反省された表現ではない。これは文ではあるが文章とはいえない。
 題名をもたない文章、それは《零題名》として理解すべきではないだろうか。


【感想】
 ここでは「文章といわれるものの本質」について述べられている。その結論は、「文章の本質・文章独自の統一性は、《題名として表現されるような集約された思想》が、《骨組みとなって全体の表現が展開する》ところにある、と考えられる」ということであり、要するに、その文の集まりに、集約した思想が骨組みとなって、全体の表現が展開されているかどうか、ということであろう。
 詩や随筆には「無題」という作品もあるようだが、とりとめないことを、とりとめもなく綴るという文の集合は文章とはいえないということだろうか。俳句では季語や季題が「題名」であり、文章そのものの中に題名がふくまれている、という説明はたいへんわかりやすく、なるほどと納得した。
 大学の講義で、時枝氏が「昔の文章は巻紙に記されていた。その初頭から末尾まで全体を一言で表書きしたものが題名である。だから、題名には本文のすべてが凝縮されている。」というように話していたことを思い出した。そのことを著者は「題名とよばれるものの背後には、文章全体をつらぬく統一的な性格について集約し統合した認識(本文とは異なった立場に立って把握された認識)がひそんでいることを示している」と説明している。
 私自身も、様々な駄文を綴っているが、はたして題名をつけられる文章はいくつあるだろうか、と大いに反省した次第である。
(2018.2.25)