梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「わが老い 伴侶の老い」(三浦朱門・ぶんか社文庫・2008年)

 「わが老い 伴侶の老い」(三浦朱門・ぶんか社文庫・2008年)読了。この本は、〈(株)海竜社より2002年に刊行された『わが老い 伴侶の老い  老年を愉しむ13の戒め』を加筆・修正し、文庫化した〉ものだそうである。執筆時の筆者は75歳、それから7年たった。当時をふりかえり次のように述懐している。〈この本を書いたときの気持ちでは、八十を越えたら、ただ生きているだけの老人になるはずだった。しかし未だに背広を着て会議に出たり、オフィスで判を押すだけの仕事が続いているし、減ったとは言いながら、原稿を書き続けている〉。つまり「わが老い」の見通しが「はずれ」て、未だに「矍鑠」としている。筆者自身、その「見込み違い」を恥じるわけでもなく、むしろ「喜び」として「やや自慢げに」のべている点が興味深かった。はたして三浦朱門は、彼の両親がそうだったように「遺族を幸せにしてくれる死」を実践できるだろうか。
 これまで三浦朱門の作物を全く読んだことはなかったが、「読まなくて当然、これからも読むことはないだろう」というのが率直な感想である。文章はどこまでも正確、非の打ち所のない表現力だが、「わが老い」も「伴侶の老い」も「両親の死」も、その描写は「淡々」と「冷徹」すぎて、生々しい。「老い」というものが「どういうものか」を「知識」として理解できたが、「老年を愉しむ」という雰囲気(感動)とは無縁であった。筆者自身、文学者というよりは「公務員」(文化庁長官)」、彼の父はイタリア文学者、母は新劇女優、配偶者は作家(曽野綾子)、子息も大学教授だとすれば、要するに、「有識者」もしくは「上流階級」(上を向いて生きてきた筆者自身は、自分が「上流階級」だ、などとは夢にも思わないだろうが)からの「一般大衆」(庶民)に向けられた「上意下達文書」(戒め)に他ならない、と私は感じた。「老い」について「いかに造詣が深いか」を自慢しているだけで、「どのように老いていけばいいのか」(筆者の言わんとするところ)がいっこうに見えてこない。面白かったのは、筆者が自分自身を「実存主義者」だと規定した点である。ピストル、日本刀などという言い方は「実存」、凶器という言い方は「本質」、人間の本質は(遺伝子という考えもあるが、今のところ)「不明」だから、「実存」で説明する他はないというのが、筆者の意図なのだろう。「老い」の「実相」(実存?)は微に入り細に亘って「描写」されてはいたが、その「本質」はどこまでも「不明」であった。(2008.10.17)