梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・57

その二   お・・になる  お・・になられる
 「お書きになる」「お書きになられる」等と使用される。これらの表現が敬語となるのは、「る」「らる」の場合と同様、ある事実の直叙を避ける方法に基づく。「なる」は「白くなる」「暖かくなる」の「なる」であって、他者がある行為において実現するという表現で、「書く」「読む」等の直叙的表現を替えて敬語となるのである。これは次の(三)の場合にも適用できる。


その三 ・・ある   ・・ます
 ともに存在の概念を表す。あり事実が存在するという表現で、事実の直叙に代えるのである。「おっしゃる」「おいである」「おぢゃる」「おりやる」「ござる」等は皆「あり」を含んで敬語となり、「あれます」(生)「いでます」「おでまし」「おはします」等は、「ます」を含んで一語のようになったものである。これらの語は、それ自身話し手との関係の規定を含んでいることは「下さる」「いらっしゃる」と同様である。


その四 ・・す(四段活用) ・・す(下二段活用)  ・・さす(下二段活用)
 「天の浮橋に立た(し)て」「行か(せ)らる」「受け(させ)給ふ」等と使用される。 四段と下二段の「す」の関係については山田孝雄氏の説がある。(「平安朝文法史」)
これらの「す」を「為(ス)」の変形と考えるならば、これが敬語的表現となるには、「る」「らる」と同様なことがいえると思う。「行かす」において、「行か」の主語によって使役ともなり敬語ともなる。敬語となる場合には、「行く」が「お行きなさる」となって敬語となるように、「行かす」が敬語になると考えられる。「為(ス)」「なす」は行為の概念であると同時に、しばしば「在る」「自成」と同義に用いられる。「ゆかしう(する)琴の音」「らうたう(し)給へ」「胸がどきどき(する)」「声が(する)」「明るい気が(する)」「山(なす)怒涛」「川を(なす)」等はそれである。ゆえに「為(ス)」の変化である四段、下二段の「す」も「る」「らる」と同様、婉曲法による敬語的表現と考えてよいと思う。「せらる」「させ給ふ」は敬語の重加である。


その五 ・・「給ふ」
 「給ふ」は、上位から下位にある事実が及ぶという概念で、素材と話し手との関係を表したものである。「給ふ」は、元来、素材間における《ありかた》の表現であって、上位から下位に物を《与え》、下位が上位から物を《受ける》概念を持つ。有坂秀世氏は、「給ふ」は独立動詞としては(上の人が下の人に)「与える」という意味だが、補助動詞としては「・・して下さる」「・・してやる」となり、さらに進んで単純な尊敬を表す語となったと述べておられる。「給ふ」が「下さる」「やる」の敬語として用いられている間は、素材間の《ありかた》の表現であって、まだ話し手と素材との関係の規定にはならないと思う。「給ふ」が、話し手に対する素材の《ありかた》の規定を表現するに至って、ここでいう「給ふ」が成立する。それは単純な敬語となったものであるが、概念的表現を離れたものでは決してない。
 「給ふ」によって表される敬意は、話し手の事実に対する志向ではなく、話し手と素材との関係(注)の規定であり、その規定によって間接に敬意の表現となり得るが、規定それ自身はどこまでも素材の話し手に対する《ありかた》に関することであるから、助動詞ではなく詞に属するというべきである。
〈【注】ここでいう素材と話し手の関係と、素材と第一人称者との関係は区別されなければならない。第一人称者は素材の一要素だから、この関係は素材間の関係である。話し手は、決して素材とはなり得ない。この関係は単に話し手に対する素材の《ありかた》の表現となる。
● 袋から一つ出して(やり)ました。
 この「やる」は、与えるものと受けるものとの間に実現する事実だが
● 許して(やる) 歌って(やる)
 の「やる」は、受ける者との間の事実ではなく、単に事実が他者に及ぶという素材の《ありかた》だけを表現している。「給ふ」の変化も上のような用法の変化から類推することができる。〉
 ゆえに、「与える」意味の「給ふ」と、話し手との関係を表す「給ふ」とは、語としての範疇を異にすることがないから、独立動詞としての「給ふ」と、いわゆる補助動詞としての「給ふ」とには単に概念の濃淡、具体抽象の程度の差があるに過ぎない。下の例はそのいずれにも解釈されるものである。
● ただ謀られ(給へ)かし(「源氏物語」・夕顔)
● 姫宮をいざ(給へ)かし(「源氏物語」・夕霧)  
● いざ(給へ)かし。内へ、(「枕草子」五月の御精進の程の條)
 なお、「給ふ」を尊敬とし、「給ふる」を謙譲とすることは妥当ではない。「給ふ」は敬語であるから、尊敬を表すと同時に、謙譲も表すべきである。また「給ふる」は、素材間の関係を表す「賜ふ」とは相対的に並ぶが、素材と話し手との関係の規定には用いることができないものである。


【感想】
 ここでは、ある事実の直叙を避ける方法に基づく敬語として、「お・・になる」「お・・になられる」、「・・ある」「・・ます」、「す」「さす」が挙げられている。「お書きになる」「お書きになられる」は、「白くなる」「暖かくなる」の「なる」と同じであり、他者がある行為において実現するという表現で、「書く」という直叙的表現に替えて敬語になるということである。「おっしゃる」「おいである」「おじゃる」「おりやる」「ござる」等は「あり」を含んで敬語となり、「あれます」「いでます」「おでまし」「おはします」等は「ます」を含んで一語のようになったということである。これらの語は「下さる」「いらっしゃる」と同様に、それ自身話し手との関係の規定を含んでおり、「いただく」「参る」とは違うと著者は指摘している。また、「す」「さす」は「行か(せ)らる」「受け(させ)給ふ」のように使われ、「行く」が「お行きなさる」となって敬語になるように「行かす」が敬語になると述べている。以上は、「る」「らる」と同様に、婉曲法による敬語的表現だが、「給ふ」は、上位より下位にある事実が及ぶという概念で、素材と話し手の関係を表したものである、ということである。そこで著者は、「素材と話し手の関係」と「素材と第一人称者との関係」は区別されなければならないと指摘しているが、私には、その区別がよくわからなかった。現代では「給ふ」という語が使われるのは稀であり、全くなじみの薄い言葉になってしまったためだろうか。しかし「きちんと書き給え」などと言うことは、今でもある。また「あれます」「らうたうし給へ」の「らうたげ」はかわいらしいという意味であることは知っていたが、「あれます」が生まれるという意味だということは、この年になって初めて知ったことである。恥ずかしい限りである。(2017.12.5)