梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・58

ロ 素材と素材との関係の把握
 甲は話し手、乙は聞き手、丙丁は素材的事実、丙および丁は素材的事実の成立に関与する人とする。丙丁と話し手甲との関係を問題外として、丁と丙が同等ならば「丁が丙にやる」だが、丁が丙より上位なら「丁が丙に下さる」となり、丁が丙より下位なら「丁が丙に差し上げる」とならなければならない。この「下さる」「差し上げる」は「やる」に対して敬語的対応をしているといえる。この場合、「下さる」が謙譲で、「差し上げる」が尊敬であるということはできない。「下さる」と「差し上げる」の相違は、丙丁の相互関係の相違である。この事実は、丙の側からいえば、丙が丁より下位の場合は「丙は丁からいただく」だが、逆の場合あるいは同等の場合は「丙は丁から受ける(貰う)」となる。 これらの場合、敬語の成立ということは、話し手甲が、丁あるいは丙を尊敬するとか、謙譲であるとかいう問題ではなく、話し手による丙丁の上下尊卑の関係に基づくのであって、このような関係を顧慮し、適当に表現するところに国語の敬語法の目的があると考えられる。従って、敬語的表現を通して我々が了解できることは、話し手がこのような相互関係を弁別する《わきまえ》の程度如何の問題である。
 敬語が、話し手の尊敬謙譲の表現のように誤られやすい事情は、たまたま丙あるいは丁が、第一人称者として話し手甲と同一人物である場合があるからである。「私はいただいた」「私は差し上げる」のような場合だが、それは話し手と動作の主体「私」が合致したために起こる錯覚である。「私」は客体化された第一人称者であり、話し手と丙あるいは丁との関係ではない。
 「近う参れ」「早く申せ」のような表現で、「参る」「申す」は敬語といわれているが、他者の(話し手に対する)動作を「参る」「申す」というのだから、これを尊敬とも謙譲とも説明することができない。そこで、尊大語と称して敬語の特例と考えられている。(湯澤幸吉郎氏「狂言記の敬譲の動詞と助動詞」・国語と国文学)これも、「参る」「申す」という事実が、たまたま上位にある第一人称者を素材的要素として成立したものであると考えれば、他の敬語と何ら異なるものではないことがわかるのである。またしばしば問題にされる古代敬語法の特例、至尊が御自らの事を述べられる時、敬語を用いられるということも、話し手であられる至尊が、第一人称者御自身の位置を他との関係において認識せられた結果御使用になるものであって、厳密にいえば尊大語でもなく、正しく敬語法の正当な使用法と認めてさしつかえないのである。また「話しくさる」「見て居やがる」等の表現も、すでに述べた《ありかた》の表現を敬語とする見地に従えば、これも敬語法以外のものではないのである。
 このように敬語は、素材間ないし話し手と素材との関係に基づくものだから、その把握の仕方により、厳粛な表現ともなり、親愛の表現(母が子に「お母さまが読んであげましょう」等)ともなり、滑稽・皮肉の表現(友人に向かって「御覧になろうかね」)ともなり得るのである。母が自己に敬語を用いるのは、子供の世界における把握の仕方を母がそのまま用いたのであり、そこに母子一体の気持ちが表現されているので、敬語の特例とはいえないものである。
【感想】
 ここで著者が強調していることは、①(敬意を表すとされている)「詞」自体には敬譲(尊敬・謙譲)の意味はない、②従って、語を「尊敬語」「謙譲語」「尊大語」等に区別することは意味がない、③敬語は、素材(人物等)間、話し手と素材との《ありかた》(上下尊卑の関係)を表す(に過ぎない)、④従って、敬語が日本人の美徳の現れであるというような説は肯定できない、ということであろうか。 
 要するに、話し手が、登場人物を尊敬したり、謙譲したりする気持ちではなく、話し手と登場人物相互の「上下尊卑の関係」を、話し手がどのように認識しているか、その把握の仕方が敬語として表現されているということかも知れない。
 「尊大語」とは、「おれさま」のように「話し手が上位ぶりを誇示する表現」とされているが、著者によれば、話し手が「おれ」と表現した途端に、「おれ」は話し手自身ではなく、素材(話の登場人物)として客体化されてしまうということであり、そこに上下尊卑の関係が表現されるので、あえて「尊大語」などと呼ぶ必要はないということであろう。 また、〈「話しくさる」「見て居やがる」等の表現も、すでに述べた《ありかた》の表現を敬語とする見地に従えば、これも敬語法以外のものではないのである〉という指摘も、上下尊卑の関係把握に基づく表現に注目している点が、たいそうおもしろかった。
 極め付きは、著者自身が至尊(天皇)について述べた、以下の文章である。その見事な敬語法を堪能したい。
〈至尊が御自らの事を述べられる時、敬語を用いられるということも、話し手であられる至尊が、第一人称者御自身の位置を他との関係において認識せられた結果御使用になるものであって〉。
 この文章を綴った著者が至尊を尊敬、崇拝していたかどうかという問題とはかかわりなく、至尊について書く場合は、このように敬語を使うべきであるという著者の「教養」が素晴らしいのである。(2017.12.6)