梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・56

 次に、詞としての敬語は、全く素材の表現に関するものであることを、敬語の構成法の上から明らかにしようと思う。
 敬語の語彙論的構成法を考察することは、(敬語の対象を追求することではなく)ある事実が話し手によってどのように規定され表現されるかを明らかにすることである。すでに述べたように、言語の表現機構は①話し手、②聞き手、③素材の三つである。ここでいう話し手、聞き手は、いわゆる第一人称者、第三人称者と同じではない。それらは、話し手、聞き手が素材化されたものであって、第三人称者と同じである。ただ異なるのは、素材としての論理的関係である。
● 僕は君にお話しよう。
 上の「僕」は話し手が素材化されたものの表現であって、真の話し手は。「僕」という語を表現する主体それ自身であるから、絶対に素材ではありえ得ない。「君」は聞き手の素材化されたもので、聞き手は「君に云々」の表現を受ける者であって、素材ではあり得ぬ場面的対象である。  
 これから考察しようと思うことは、これら第一人称者、第二人称者を包含する素材的事物を、話し手がどのように規定し表現するかということである。例えば「見る」という事実でも、それが第一人称者、第二人称者、第三人称者のいずれに属するか、の別に従って、これに対する話し手の規定は異なり、表現する形式が異なってくる。これは話し手と素材との関係の規定である。次に、「見る」事実は、それを成立させる素材間の関係によっても異なった規定を受ける。この素材的要素としては、第一、第二、第三の各人称を当然そこに含むのである。具体例で示せば、
● 甲、乙を見る(無規定の場合)
● 甲、乙を見給ふ(話し手との関係による甲の動作の規定、甲の乙に対する関係は規定されていない)
● 甲、乙を見奉る(甲乙の関係による甲の動作の規定、話し手との関係は含まない)
● 甲、乙を見奉り給ふ(甲乙の関係、話し手と甲との関係による規定を含む)
 今もしここに聞き手との関係をも問題にするなら、いっそう複雑な表現となるが、それは後述する。
 素材と話し手との関係の規定がどのような形で表現されるかを具体的に示す。
■甲(話し手)・・・・・・・・・・・・・・■乙(聞き手)
・ ↓ ・
・ ↓ ・
■丁(素材的事実、事実を成立させる者)・・■丙(素材的事実、事実を成立させる者) 甲は話し手、乙は聞き手、丙ー丁は素材的事実、そのような事実を成立させる者、↓は丙丁に対する話し手の規定を表す。丙丁という素材的事実は、甲より乙に向かって、甲の乙に対する場面的志向関係によって表現されるが、甲乙丙丁が相互に密接な関係で結ばれているということが、敬語表現の成立する第一の条件である。今、これらの相互関係の中で、(甲の乙に対する場面的関係と、丙丁の素材間の関係を除き)丙丁と甲(話し手)との関係のみを問題とする。丙丁という事実が甲の上者、尊者に属する場合、この事実は特殊な《ありかた》のものとして把握され、それを表すのに適当な表現が選ばれる。それを次に列挙する。
その一、「る」「らる」の添加
 「る」「らる」は、話し手の判断情意を表す助動詞とは異なり、ある種の概念内容を示すものだから、詞というべきである。ただ他の用言のように独立して用いることがないので、接尾語と称しても差し支えない。接尾語は機能的に見て独立した体言用言と同様である。従って、「る」「らる」の添加したものは、複合語「吹き払う」「流れ下る」等のような概念の重加したものと同様に考えなくてはならない。では、「る」「らる」はどのような概念の語であるかというと、詳らかにされていない。私案を述べれば、「る」「らる」は、古く「ゆ」「らゆ」と用いられていたことを考え、さらに「見ゆ」「聞こゆ」「思ほゆ」「消ゆ」「絶ゆ」等の「ゆ」と考え合わせると、この語は、事物の《自然的実現》の概念を表したものではないだろうか。「見る」「聞く」「消す」「断つ」は能動的意志作用の概念であるのに対し、ある事実の自然的実現を意味している。可能的能力と自然的実現とは同一事実の表裏をなしている。国語において、
● 私は音が聞こえる。
 ○ 私は聞こえる(可能的能力)
 ○ 音が聞こえる(自然的実現)
 また、「できる」という語も同様に、
● この子は算術ができる。
 ○ この子はできる(可能的能力)
 ○ 算術ができる(自然的実現)
 自然的実現とは、「答ができる」「家ができる」「溝ができる」等における「できる」の意味である。「る」「らる」を、もし自然的実現の概念を表すものとすれば、次の文はどのような意味になるだろうか。
● 彼は打たれた。
 上の文は、二つの場合に分けて考えることができる。一つは、「打つ」動作の主語が、彼以外の他者である時、二つは、彼が動作の主語である時である。第一の場合、他者の「打つ」という動作が彼において実現するという意味なので、受身とも考えられる。ただし、自然的実現ということは、本来は他者の動作がそれを受けとるものの関心において実現するともいえる。例えば「親、子に泣かる」「子は親に死なれた」「私は毎日雨に降られた」のような場合は、動作が自己の関心において実現することを意味する。もし、主格に対応する述語格を厳密に求めるなら、「親・・る」「子・・れる」「私・・れ」ということになるのである。 
 第二は、「打つ」の主語が「彼」である場合である。「彼」が「打つ」動作を自然的に実現するという時、この動作の実現を蒙る者は他者であり、「彼」についていえば「彼」の可能的能力の表現となる。従って、この表現は、その事実において「彼は打つ」と全く同じこととなるのである。すなわち、「彼は打たれる」は、彼は打つことができるということを表すと同時に、彼は打つことを実現するという意味を表し、前者はいわゆる可能の表現であり、後者はいわゆる敬語的表現である。では後者の場合、なぜ敬語的表現となるか。それは後者が、「彼が打つ」ということを、「打つ」動作が自然に実現するという表現法で表現したことであり、「打つ」という端的な表現に比べて婉曲であり、婉曲であるということが敬語的表現になる所以である。それは「見よ」という第二人称者に対する命令の表現よりも「見ていただけませんでしょうか」という話し手の希望としての表現の方が婉曲であり、また敬語的であることに等しい。「歩く」に対して「お歩きになる」という表現が、他者の動作を、事実の実現ということに翻訳することで敬語的表現になり得ることと同じである。「仰す」よりも「仰せあり」が敬語と考えられるのも同じ理由による。「る」「らる」は、それらに敬意が含まれているのではなく、そのような表現法が敬意の所産として結果したものと考えなくてはならない。このような婉曲法は、その根柢において、ある事実をそれが自然に実現するという事実の《ありかた》において把握したことと考えられるのであり、「る」「らる」はそのような《ありかた》の表現というべきである。「る」「らる」それ自体を敬意の表現と考えれば「仰ありて」「お出でになる」がなぜ敬語であるかという説明はできないことになるのである。
 敬語は、このような《ありかた》の認識であり、それは概念の移行においてはじめて成立するものである。
 このようにして「る」「らる」は、あらゆる動詞に添加して敬意の表現の方法となるが、それはもっぱら話し手と素材のとの関係の規定である。一般に敬語といわれている「いただく」「参る」「あがる」「差し上げる」等も、それだけでは話し手との関係は無規定のまま残されているのであって、「いただかれる」「参られる」「あがられる」「差し上げられる」とすることが必要である。「いただく」「参る」等は、素材間の関係のみを表現した敬語だからである。


【感想】
 ここでは、詞としての敬語がどのように成立するかについて述べられている。
 著者はまず、「見る」という事実の敬語的表現法として、話し手、甲、乙の三者を想定し、話し手と甲の間に上下尊卑の関係がなければ「甲、乙を見る」という無規定の表現になる、話し手より甲が上位であれば「甲、乙を見給ふ」となり、甲より乙が上位であれば「甲、乙を見奉る」となる。その際、話し手と甲の関係は含まれていない。もし含まれる(話し手より甲が上位である)とすれば、「甲、乙を見奉り給ふ」という表現になる、ということである。「給ふ」は甲に対する話し手の敬意の表現であり、「奉る」は乙に対する甲の敬意の表現であるということが、よくわかった。
 次に、甲(話し手)、乙(聞き手)、丙と丁(素材としての登場人物)の四者を想定し、甲乙丙丁の四者が「相互に密接な関係で結ばれている」場合、敬語表現が成立すると述べられている。その相互関係の中で、甲と丙・丁との関係のみに注目し、甲よりも丙・丁が上位にある場合の表現について列挙するということで、はじめに「る」「らる」について述べられている。
 「る」「らる」の中には、一般には「尊敬を表す助動詞」が含まれていると考えられているが、著者は話し手の判断情意を表すものではないとして、詞に分類し「接尾語」と称している点が、たいへんユニークで興味深かった。では「る」「らる」はどのような概念の語であるかというと、その内容は「詳らかにされていない」という。しかし、著者には「私案」があった。それは「自然的実現」の概念を表しているということである。例えば「私は音が聞こえる」の「私は聞こえる」は可能的能力の表現であり、「音が聞こえる」は自然的実現の表現である。「彼は打たれた」という場合、「打つ」という動作の主語が「彼以外」であれば「打たれた」は受身の表現になるが、「打つ」の主語が「彼」である場合には、「打たれる」のは他者であり、「彼」から見れば、彼は打つことができるという可能的能力の表現となり、また同時に打つことを実現するという意味にもなる。その後者が敬語的表現に結びつく。なぜなら「彼は打たれる」という表現は、「彼は打つ」という端的な表現ではなく、婉曲に「打つ」という動作が自然に実現するという表現法で表現しているからである。つまり婉曲であるということが敬語的表現になる所以だというのである。
 この著者の説明(「私案」)もユニークでたいそうおもしろかった。
また末尾で、〈このようにして「る」「らる」は、あらゆる動詞に添加して敬意の表現の方法となるが、それはもっぱら話し手と素材のとの関係の規定である。一般に敬語といわれている「いただく」「参る」「あがる」「差し上げる」等も、それだけでは話し手との関係は無規定のまま残されているのであって、「いただかれる」「参られる」「あがられる」「差し上げられる」とすることが必要である。「いただく」「参る」等は、素材間の関係のみを表現した敬語だからである〉という《だめ押し》で結んでいるが、現代では「いただかれる」「参られる」は《敬語の誤用》と分類されているようである。そうした表現をする現代人は皆無だからかもしれない。まさに隔世の感がある。
(2017.12.4)