梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・54

 次に、敬語はどのような理由で、国語の特性と考えることができるかを明らかにしようと思う。それを日本民族の美風の現れなどと、民族精神の云々をする前に、敬語の語学的特質を究める必要がある。敬譲の表現は外国語にもある。従って、国語における敬語の特質が奈辺にあるかということが問題になってくる。
 国語の敬語は、上下尊卑の識別に基づく事物の特殊な《ありかた》の表現であり、識別そのものの表現である。敬語においては、まず事物を把握する特殊な態度が必要とされる。 「見る」という事実を表現するのに「詳しく見る」か「万遍なく見る」かという分析的把握よりも、誰が誰を、また何を、そして話し手から見ての誰、何が、どのような上下尊卑の関係にあるかという識別が必要とされ、それによって「見る」という事実の表現を制約しようというのが国語の建前である。前述した甲、乙、丙、丁の関係図で述べるなら、素材的事実丙丁は、丙と丁との関係はもちろん、丙あるいは丁に対する話し手甲、聞き手乙等との相互の上下関係が明瞭に識別されることによって、はじめて丙丁の表現が完成されるのである。このようにして「見る」は「見ていただく」「見てあげる」「見なさる」「見ていただきなさる」等の敬語の系列をつくる。
それは、事物をつねに外部的な相互規定において、総合的見地から把握しようとする結果であると考えられる。そこでは、あるものを上として尊ぶと同時に、あるものを下として卑しめるということが対立する。ゆえに、敬語に対して、別に、謙譲語あるいは卑語が存在するということはいえない。事物に対する総合的把握は、敬語ばかりではなく、一般の語でも見られる。「怖ろしい」は、感情概念であると同時に、その対象の属性概念も表しているのがよい例である。
 国語においては「妻」という一語で、同一概念の凡てに適用することはできない。どのような身分の人の妻であり、それが話し手とどのような関係にあるかの上下尊卑の識別によって、「奥方」「夫人」「奥さん」「おかみさん」「女房」「家内」「嬶」等の語が必要とされる。敬語が国語の特質であるということは、一事一物の概念的把握において、相互的総合的関係の認識が働くというところにあるのである。
 「趣く」「去る」という二語は、事実の属性的区別によって成立した分析的概念だが、国語においてはこれに満足せず、(上下尊卑の関係を考えて)「趣く」に対して「参る」、「去る」に対して「まかんづ」を対立させた。本居宣長が「趣くところを尊み、去るところを尊ぶ意味である」(「古事記伝」)といったのは、そのことである。敬語は尊敬の表現であるというよりも、尊卑の識別による素材の概念的把握の表現であり、そのような表現を通して、話し手の尊卑の識別を表現することであり、そこに話し手の教養あるいは人格を覗うことができるのである。国語の敬語の特質は以上のような点にあるといえる。


【感想】
 ここでは、国語における敬語の特質について述べられている。それは、「上下尊卑の識別に基づく事物の特殊な《ありかた》の表現であり、識別そのものの表現である」ということである。言い換えれば、話し手が、素材(人物等)相互の上下尊卑の関係(《ありかた》をどのように識別しているかを、敬語は表現しているということであろう。 
 「見る」という一語をとっても、「見ていただく」「見てあげる」「見なさる」「見ていただきなさる」(注・現代ではこの語は「敬語の誤り」と分類されている)等の系列があり、それは「誰が誰を、また何を、そして話し手から見ての誰、何が、どのような上下尊卑の関係にあるかという識別」によって使い方を変えるということである。そこには、必ずしも話し手の敬譲(の美風)が現れているわけではなく、あくまで上下尊卑の《ありかた》を表現しているに過ぎないという指摘が、たいそうおもしろかった。
 著者は、敬語の表現によって話し手の「教養あるいは人格を覗うことができる」と述べているが、現代でも、敬語を正しく使い分けることができるようになるのは、10歳半以降とされており(「S-M社会生活能力診断検査」)、また古典落語の中でも長屋の住人同士に敬語にまつわる滑稽談が数多く存在することからも、十分に納得できた。
 そう言えば、最近の日本人には「猫に餌をやる」ではなく「猫に餌を上げる」などという表現が目立つ。飼い主よりも猫の方が上だという意識の表れだろうか。猫ではなく、相手が雀、文鳥、鯉、金魚、雀、クワガタ、鈴虫などの場合も「餌を上げる」と言うのだろうか。世の中、変われば変わるものである。(2017.12.2)