梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・53

二 言語の素材の表現(詞)に現れた敬語法
イ 話し手と素材の関係の規定
 詞は、事物(素材)の概念的把握によって成立するが、その中から敬語というものを特に取りだして区別するのはどのような根拠によるものか、について述べたい。
 それにはまず、詞の成立する過程(素材の概念的把握)の種々な形式についてあらかじめ知る必要がある。詞は、体言・用言、忌詞・隠語、比喩、一般概念を表す語、特殊概念を表す語、などに分類されるが、それらの概念的把握は、すべて単純に事物の属性によって規定されたものである。しかし、敬意に基づく概念的把握は、事物の上下尊卑の認識が介在するので、重要な相違が存在する。
 「貰う」「やる」という語と「いただく」「上げる」という語を比べると、この二語は、それぞれ物が甲より乙に授受されるという点において、「貰う」「やる」と同じである。異なるところは、誰と誰の授受か、またその誰の間に上下尊卑が存在するかが考慮され、これらの事実が特殊な《ありかた》のものとして概念され表現されていることである。
「いただく」という事実は、(中心的属性としては)「貰う」という事実と異なることはないが、与える人と貰う人との間に上下尊卑の関係が考えられ、それによって同一事実の《ありかた》が特殊の規定を受けていると考えられる。このような概念把握は「貰う」という語によっては完全に表現できない。そこで「いただく」という語が使われることのなるのである。これ(《ありかた》)を以下のように図示して見る。
● 甲(話し手)→乙(聞き手)→丙(与える人)→丁(貰う人)(*四点は台形で結ばれている)
 もし、甲が乙に表現する素材的事実、丙と丁が平等関係であれば「丁は丙に貰う」となる。もし丙が丁より上位であれば「丁は丙からいただく」とならなければならない。この表現の相違を規定するものは何であろうか。「いただく」は「貰う」事実の成立に関与する丙、丁の上下尊卑の識別である。物の授受という概念内容(内部的条件)に比べれば、丙丁の関係は全く外部的条件である。敬語はまさにこのような外部的条件によって規定された概念の表現であるといえよう。しかし、まだ考える余地がある。
 「君」「臣」のような語を敬語といえるかどうか。白鳥倉吉博士、三矢重松博士、宮田和一郎氏らは「神」「君」「姓」「すめらぎ」「内親王」「后」「行幸」等を敬語としている。しかしこの論法では「帝王」「先生」「父」も敬語の範疇に入れざるを得なくなる。
● 君としてかくあってはならぬ。
● 君は如何遊ばされたであろうか。
 上の二つの用法は必ずしも同じではない。前者の「君」は「臣」の概念に対立し、上下尊卑の観念に基づいて成立したことは事実だが、これらの識別が内部的条件として語の属性となっている。「私は先生になりたい」の「先生」も同様である。後者の「君」は、身分としての「君」を表そうとしているのではなく、第三人称者「彼」を表すのに、その「彼」が話し手から見て特殊の《ありかた》にあるものであることを「君」という概念を借りて表現したのであって、音形式は同じ「キミ」だが、前者は身分の概念を表し、後者は第三人称者「彼」を表し、その表現の過程構造を異にするのである。(後者の過程には、言語主体の、素材に対する上下尊卑の自覚に基づく概念の移行が含まれている。)このような外部的条件は、概念の移動の過程において表現できるのであり、後者の場合のみを敬語ということができる。「先生は御健在ですか」の「先生」も同様である。
● 空を仰ぐ。 星を仰ぐ。
● 御臨席を仰ぐ。 
 の例で、前者は「見る」特殊相を表現したものであり敬語とはいえないが、後者の場合は、「請う」「求める」という事実が、請う者求める者と請われる者求められる者との上下尊卑の認識によって特殊の《ありかた》のものとして規定され、このような概念を表すのに適当なものとして比喩的に概念が「仰ぐ」に移行されたのである。だからこの場合、「仰ぐ」は「頭を挙げて上を見る」ことを意味しない。「花が咲く」を「花が綻ぶ」と表現することに等しい。
 私が敬語を定義して「事物の《ありかた》に対する特殊な把握の表現であるといったのはその意味であったのである。
 敬語は事物本来の属性によって規定されたものではなく、事物に関連する外部的条件による規定の表現であって、語の過程的構造に表れてくる。ゆえに、「いただく」というような語を、その過程的構造を無視して、最初から敬語であると断定してしまうことはできない。敬語は、その外部的条件を除外すれば、直ちに通常の語に復帰すべき性質の語である。
● いただく・・・→貰う  あげる・・・→やる
 上のような還元が可能である場合に、はじめて敬語として考えられるのである。
 敬語は敬語ではない語との対立においてはじめて敬語として意識される。「上げる」という語が敬語と考えられるのは、「やる」という語に対立してはじめて敬語といえる。「坂に車を上げる」の「上げる」には対立がない。「神」「宮城」「内裏」等が必ずしも敬語といえないのはそのためである。また「神社を拝す」の「拝す」」が敬語ではなく、「尊顔を拝す」の「拝す」が敬語になるのも、後者は「見る」の敬語的表現であるのに対して、前者は特殊な属性を持った事実そのものの表現だからである。
 接頭語「お」「ご」「み」等を付加したものは、これらを削除した語に対して敬語と考えられる。「写真」に対して「お写真」、「綺麗」に対して「お綺麗」のようなものである。また、それがすでに別個の属性を持った事実の表現と考えられるか、あるいは対立が考えられなくなった時、それらはもはや敬語として意識されなくなる。
● はち(鉢)・・・・おはち
 「おはち」は語源的には「はち」の敬語であったが、今日ではそれぞれ別個の器物と考えられ、「おはち」は「はち」の敬語ではなくなる。「御神燈」「おまる」「おまえ」「おやつ」「おなか」「みこし」「みす」などはその類いである。
 以上のように、私は、敬語は事物の特殊な概念的把握に基づくものであり、事物の特殊な《ありかた》の表現が敬語となることを明らかにしてきた。そして、敬語は敬語ではない語との対立においてはじめて敬語として意識されるものであるという結論に達した。
【感想】
 著者は、敬語とは「「事物の《ありかた》に対する特殊な把握の表現である」と定義している。その《ありかた》を甲、乙、丙、丁の四者を想定して説明している。甲は話し手、乙は聞き手、丙と丁は素材として登場する人物である。その時、丙と丁の上下尊卑の関係が事物の《ありかた》ということになる。今、丙が丁に物を授けた場合、丙と丁が同等の関係であれば、甲は「丙は丁にやった」「丁は丙に貰った」と表現し、丙より丁が目上であれば「丙は丁に差し上げた」「丁は丙に貰った」、丙より丁が目下であれば「丙は丁にやった」「丁は丙にいただいた」という表現をする。この時、「差し上げる」「いただく」は敬語として使われているが、それは丙と丁の《ありかた》に因るものであり、「差し上げる」「いただく」という語自体が敬語だとはいえない。「大きな荷物を頭の上に差し上げる」「雪をいただく山」などという場合は、荷物、頭、雪、山の間に上下尊卑の関係はないから、敬語ではない、ということであろう。 
 同様に、「仰ぐ」という語も、「空を仰ぐ」「星を仰ぐ」という場合には、単に「頭を挙げて上を見る」という意味で敬意は含まれていない。しかし「御臨席を仰ぐ」という場合は、「請う」「求める」という意味に敬意が含まれるので敬語になるという。
いずれにせよ、語は使われ方によって敬語にもなったり、ならなかったりするものであるという説明はよくわかった。では「仰げば尊しわが師の恩」の「仰げば」は敬語であるか、ないか。私は答えにまだ迷っている。(2017.12.1)