梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学言論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・55

 事物の概念的把握による語の構成は、語彙論に属するから、敬語的表現(敬語的構成)は語彙論に所属しなければならない。敬語的系列は語彙的系列である。この見解は、文法体系の組織に関連して、重要な結論を導く。
「咲くだろう」という語は詞と辞の結合で、「咲く」という事実の概念に話し手の「だろう」という推量が加わっているが、敬語「散歩なさる」は、複合的ではあるが、結局一つの事実の概念であり、詞の結合である。「赤煉瓦」の「赤」と「煉瓦」の結合(複合語)と同じである。
 敬語が文法的事実であるとされる理由の一つに、敬語を構成する「る」「らる」「す」「さす」「しむ」を他の助動詞「ず」「たり」「べし」「まじ」等と同列に、これを崇敬の助動詞と考えた結果、「咲かむ」が文法的事実なら「行かる」も文法的事実でなければならないということがある。しかし、これらの崇敬の助動詞といわれるものは、助動詞より除外して接尾語と考えるべきである。敬語を構成するものは、詞に属するものである。(詳細は後述する)
 次に、文中における敬語は、対応呼応の関係にあるから、敬語は文法的事実に属するという説がある。(山田孝雄氏「敬語法の研究」)
● 御令息は、御卒業なされた。
 上の文で「御令息」は「御卒業なされ」と首尾呼応しているというのである。しかし、上のような対照呼応の関係は、いわゆる係り結びの呼応関係と同列に論じることはできない。係辞に対する結辞の呼応は、その変化それ自身が、語の文法的系列を構成するが、「御卒業なさる」は「卒業す」の文法的変化でなく、この二語は異なった概念内容を持った別の語である。それは「食う」と「いただく」、「見る」と「見果つ」の相違と変わらなく、語彙的系列に属するものである。従って、上の文中の首尾の対応関係は、文法的対応ではなく素材的対応である。
● 鶏が餌を啄む。
● 赤は丸い。
 上の二例では、「鶏」「餌」「啄む」には素材的対応があるが、「赤」「丸い」には素材的対応がない。これを文法的呼応とはいえないように、敬語の対応も素材的対応の現象であるに過ぎない。従って、敬語の誤用は、文法的錯誤ではなく、個々の事物の概念的把握の疎漏不用意を意味する。敬語の首尾対応が文法的事実ならば「君にも僕の絵を拝見させてやろうか」のような表現は、文法的錯誤であり許されないはずだが、これが皮肉あるいは諧謔として許されるのは、それが文法的事実ではなく素材的事実だからである。山田孝雄氏は、主格と術格の間に敬語の対応が法則的に存在することを次のように述べられた。
● 第三人称の第一種すなわち主格を尊敬しているものにては第二人称の如く述語に敬称を用い(「敬語法の研究」)
 しかし、
● 父上は宮にお仕え申された。
 において、「父上」という敬称に対応するものは「お仕え申され」であって、一応は山田氏の説に合致するようだが「申す」という語は、氏に従えば謙称であり、「お仕え申す」という謙称は、「父上」という敬称とは対応できないものである。「申す」が「申され」となっているから「お仕え申す」という謙称が敬称に変化し、それによって対応が成立すると説明できるが、謙称に敬称が付加されて敬称になるということは、その数学的図式を離れて、事実に即してそれが何を意味するかが明らかにされなければ、説明は無意味である。山田氏の敬称と謙称の対立は、敬語を文法的事実として説明するためにとられた重要な類別である。山田氏は
● 従来謙語と敬語との区別をなせるものもその狭義の敬語中に区別すべきを唱えたるもの殆どなく況んやそれが文法上の位置を説けるもの全くなし(「敬語法の研究」」
 と断じ、謙称については、
● 口語および条文においてはその第一人称の主格が使用する語に限るものなるを明らかにするを得たり
 とし、敬称については
● 敬称とは対者または第三者に関するものをさして尊敬の意をあらわすものにして第二人称をいうに用いるものなり
 とされ、謙称の動詞としては「もうす」「いたす」「いただく」「さしあげる」、敬称としては「めす」「おぼしめす」「くださる」「おっしゃる」等を挙げられた。これらの動詞と文の主語との対応関係を見ると、必ずしも山田氏のいわれるようではない。謙称の動詞は、「る」「らる」を添加して皆尊敬すべき第二人者、第三人者の行為を表せる。(注・申される、いたされる、いただかれる、さし上げられる等。ただし、現代では「敬語の誤り」と分類されている)謙称と敬称の結合ということは事実上、説明困難なことである。また、氏は謙称を絶対謙称と関係謙称に区別し「いただく」「上がる」等の語は謙称を用いる者が尊敬すべきものに対しての行動をいうのだから、これを関係謙称というとされた。(「敬語法の研究」)ここまでくれば、もはや謙称敬称の名で呼ぶには不適当な事実までをも敬謙の概念で説明されようとしているらしいことがわかるのである。そもそも尊敬とか謙譲とかいうことは、話し手の意識においていわれることであり、第二人称者、第三人称者の他者に対する敬謙を話し手が表すということは考えられないことである。話し手は素材間の上下尊卑の関係を概念的に規定することだけが可能なのである。元来、尊敬と謙譲という二つの概念は、相対立し、相互に排斥し合う概念ではない。謙譲なくして尊敬なく、尊敬があれば必ず同時に謙譲がなければならない。ゆえに、謙敬の二つの概念で敬語を二大別の範疇とすることは妥当ではない。「奉る」は奉仕をする側からも、受ける側からもいわれ、「くださる」は与える側からも受ける側からも両用に用いられる。(「狂言記の敬謙の動詞と助動詞」湯澤氏)「賜う」も同様である。
 以上、敬語について、尊敬謙譲の類別を設けることは妥当でないこと、敬謙の二語が文中で首尾対応することは決定的ではなく、また対応が存在してもそれは素材的に見て重要だろうが、文法的事実ではないことを明らかにしてきた。従って、敬語はもっぱら語彙論的事実として研究されなければならないという結論に到達するのである。
【感想】
 ここで著者が強調していることは、敬語は《語彙論的事実であって文法的事実ではない》ということであろうか。文法的事実とは「文」に関わる事実であり、言い換えれば、語と語の結合関係ということであろうか。一方、語彙論的事実とは「語」に関わる事実であり、「文」の構成とは関わらないということであろうか。著者は「咲くだろう」と「散歩なさる」という語を比べて、前者は「咲く」と「だろう」の二語で主体客体両界の結合を表しているが、後者は「散歩」と「なさる」の二語で《複合的》だが、結局は一つの事実の概念、詞の結合による客体界の表現であるとしている。それゆえ、前者は文法的事実であり、後者は語彙論的事実だということになる、と私は解釈したのだが、それが正しいかどうかは自信がない。 
 そのことと関連して、著者はまた、敬語を尊敬語と謙譲語に区別することは「妥当ではない」と述べている。「元来、尊敬と謙譲という二つの概念は、相対立し、相互に排斥し合う概念ではない。謙譲なくして尊敬なく、尊敬があれば必ず同時に謙譲がなければならない。ゆえに、謙敬の二つの概念で敬語を二大別の範疇とすることは妥当ではない」。
 なるほど「申し上げる」という語は、目上の人に対する行為(謙譲)を表現するが、「申される」と言えば尊敬の意味になるということかもしれない。しかし、その区別は曖昧であり、もともと尊敬と謙譲は「排斥し合う概念ではない」ということがわかったような気がする。
 いずれにせよ、以上は敬語を「文法的事実」であるとする山田孝雄博士の敬語論(「敬語法の研究」)を批判したものであり、私にとっては理解困難な部分が多々あったとしてもしかたがないと思った。(2017.12.3)