梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・31

ハ 詞辞の下位分類
 詞と辞の二大別の原理は、詞辞の下位分類においても厳重に守られなければならない。詞の中には絶対に辞の概念を含めてはならないのである。詞と辞の意味的関係は、「雨が」という連語を取りあげて見ると、「雨」および「が」という各々の単語は《「雨」(が)》という図が示すように、辞(が)が詞(雨)を包む関係になっている。主体が客体を包んでいるのである。分離された詞は、それだけについて見れば、全く主体的規定のない純粋の概念のみの表現である。この点は、詞と辞が一語の中に融合して(I・my・meのように)分析不能の形に結合している印欧語とは著しく異なる。従って、判断的陳述を表す文としての「降る」「寒い」などは《「降る」(■)》、《「寒い」(■)》の図のように、零記号の陳述■という語を含んでいると考えるのが妥当であると思う。「雨が降る」という文の陳述の位置は《「雨が降る」(■)》となり、詞としての「降る」「寒い」等の語それ自身は、主体の規定を離れた純粋の概念として見なければならない。
 「山」「降る」「高し」「あはれなり」はひとしく概念過程を経た詞であり、その点では差異を見出せないが、それらが他の語と接続する際の語形に相違を見出すことができる。体言、用言、さらに用言中に動詞、形容詞、形容動詞等を類別することができる。近世の国語学者が用言をもっぱら動く言、体言を動かぬ言として認めたことに深い理由を見出すことができると思う。用言が陳述を表す語と考えるのは、純粋に概念的なものに辞としての要素を加えて考えることになるから、その時はすでに詞としての用言を見ているのではなく、詞辞の結合したもの、すなわち文あるいは文節を見ていることになるのである。用言を単語として考える限り、それは純粋に概念的な詞としての用言を考えなければならない。以上のことは、述語的陳述においてばかりではなく、装定的陳述においても通じることである。例えば「春の雨」における「春の」は「雨」を装定するが、それは「の」が「春」を包む関係に立っているためであり、詞(春)辞(の)の結合によってはじめて装定的陳述が成立するのである。これを分解して「春」のみを詞として考える時、それは純粋に概念的表現であり、用言と比較して接続の語形を異にするから「体言」ということができる。同様に「淋しき雨」「降る雨」を装定的陳述という時は、詞としての「淋しき」「降る」に装定的陳述を表す零記号の辞が添加したものを考えているのである。これを前例と対比して見ると、
春の・・・《「春」(の)》   淋しき・・・《「淋しき(■)》  降る・・・《「降る」(■)》 ゆえに、詞としての「淋しき」「降る」は、全く純粋に概念的なものとして考えるべきであって、述語的陳述より分析された「淋し」「降る」と異なるところはその語形である。ここに連体形、連用形のような活用形の系列が認められるが、それがもっぱら形式的系列であって職能的系列でないということは、体言用言の類別と同様に、以上の説明で明らかになったと思う。
 国語において、一個の詞としての用言、「降る」「寒い」だけで文と考えることができるのは、用言が陳述を兼備しているためではなく、詞としての用言に、零記号の陳述が連結するためである。文は詞辞の結合で成立するという、私の文の本質観はここでも確認できる。


 次に、単語の分類において、しばしば重要な基準とされている単語の独立、非独立の問題について考える。語の独立、非独立ということは、語と語との関係に関することであり、語それ自身の本質上の相違ではない。ある語はそれ自身独立して用いられるが、ある語はつねにある語と結合してのみ用いられるということが、はたして語を合理的に分類する基準になるか。このことを明らかにするためには、まず単語認定の手続きを吟味して見るのが早道である。単語が孤立している時は問題はないが、連鎖をしている時、単語はどのようにして分析されるか。 
 その第一段は、以下のように思想の分節が音声の句切りを生むことを目安として、分節を造ることである。
● 雨 降らむ
●  雨が 降った
 橋本進吉博士は、このようにしてできた語の集団を文節と命名し、これは最も自然的な文の分解であるといっておられる。(「国語法要説」)この文節は、構成要素の点からいえば、詞(+零記号の辞)、あるいは詞と辞の結合が一団をなしていることは明らかである。 上の分節が明らかに示すように、国語の連鎖の最も自然的な分析は、必ずしも単語の認定には到達せず、多くの場合に、単語の結合されたものを見出させるに過ぎない。 
 そこで、第二段に進んで、以下のような分節が成立する。
● 雨・■ 降ら・む(■は零記号の辞)
● 雨・が 降っ・た
 この分節によってはじめて単語が抽出されるのだが、この単語抽出の段階は、文節の分解が自然的であるのに対して、一般に意識的であり、抽象的であり、帰納的であることが要求される。それは主体的意識に基づくというよりは、観察的立場に基づくのである。「降った」は「降っ」「た」と分解され、極めて非現実的な「降っ」を一単語として認定しなければならなくなる。辞が独立しない語であると同時に、詞にも用言の活用形のように独立しないものがある。「山」「川」は明らかに独立した体言と考えられているが、「旅館」「写真館」の館、「富士山」「深山」の山、「薬舗」「店舗」の舗などは独立して用いられない。でも体言以外のものと考えることはできない。「やりかた」「しかた」のかた、「つぎめ」「さけめ」のめ、なども独立的用法はもたないが、帰納的に見れば一単語と考えられる。国語における単語は、具体的なものの分析によって認定されるから、単語の認定が抽象的になることはやむを得ないことであり、そこに独立非独立ということが基準とはなり得ない理由があると思う。


 零記号の陳述を辞と同格に一単語として取り扱うことについて注意を喚起したい。
辞書の中に列挙されている「寒い」「流る」とかいう語は、それだけでは単なる概念を表す詞に過ぎないが、国語においては、肯定判断としての陳述を表す場合には、その形をそのまま、以下のように用いる。
● 風が寒い
● 水 流る
 この場合、「寒い」「流る」とは辞書的意味に陳述が加わったものと考えられ、山田孝雄博士は、用言の特質をその点に置こうとされている。
〈そもそも用言の用言たる所以はこの陳述の能力あることによることは既に繰り返し説きたるところなるが〉(「日本文法学概論」)
 従って、氏のいわゆる「陳述のし方に関する複合尾」(「同書」)が、用言の内部的要素、すなわち語尾と考えられるに至り、さらに用言の用とは、陳述の作用を有するものであると説かれるにいたったのである。用言に陳述の能力があると考えることは、文字が意味を持っていると考えるのと同様に構成主義的考え方であって、主体的立場においては、言語主体が用言において、陳述を表していると考えなければならない。それならば、主体の陳述は用言のどこに(零記号の陳述として)在るのだろうか。
 既に述べたように、印欧語においてはA is Bのように繋辞は語と語の中間にあってこれを結合している。He runs・・・・Heーrunsのように、語の中間に零記号で存在すると考えられるが、国語の「犬走る」においては、《犬■走る》ではなく《犬走る・■》のように、客体的なものの表現の最後に位置して、客体的なものを包む形で統一していると考えられる。
● 山は雪か・・・《山は雪・か》 
● 外は雨らしい・・・《外は雨・らしい》
●  犬走る・・・《犬走る・■》(■は零記号の辞)



【感想】
 ここで著者が強調していることは、《零記号の辞》という考え方である。通常「寒い」「走る」という語には、陳述の働きがあると思われているが、その語自身には陳述の働きはない、ということである。ある話し手がある聞き手に対して「寒い」と言ったとき、話し手は「寒い」という概念を肯定して陳述しているのだから、「寒い」という語の後に《零記号の辞》(話し手の判断)が加えられているという考え方である。「寒いか」という場合、「か」は疑問を表す辞であり、「寒い」の後に「か」と顕在化しているが、「寒い」という場合は「寒い■」というように、肯定を表す零記号の辞が潜在しているということである。
 私は著者の講義で、「一枚の絵の中に何が描かれているか」という問題を与えられたことがある。それは果物の静物画であった。学生たちは、一様に「林檎」「バナナ」などと答えたが著者は「まだ他にないか」と問いかける。一同は「テーブル」「カーテン」などと背景等まで挙げたが、著者は「まだ他にないか」と執拗に問いかける。皆が答に窮した時、「この果物は作者がどの位置から見たかという視点も描かれている」と指摘した。なるほど、それは、斜め上から果物を描写していた。その果物を通して作者の視点がわかるのである。画面の中に客体として描かれてはいないが、その客体は同時に作者の目の位置を表しているのである。著者は「辞とはそのようなものである」と説いた。言語表現においても、語られる内容とともに、話し手の意識が「見え隠れ」しながら加わっているのである。それは、ただ音声を聞き流したり、文字面を眼で追っているだけでは気がつかない。というよりは、聞き手や読み手は、まさにその話し手や書き手の意識を追体験しなければ相手の陳述の内容(主題・意図等)を理解できない、ということであろう。
 著者が言語を「主体的行為の過程である」と定義する理由がわかったような気がする。
(2017.10.5)