梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・32

ニ 辞と認めるべき「あり」および「なし」の一用法
 現行文法書の助詞および助動詞は、私のいう辞に合致するものだが、なお幾分の出入りを認めなければならない。
 その一は、一般に動詞として詞に属すると考えられている「あり」およびその一群の語である。
● ここに梅の木がある。
● これは梅の木である。
 上の例で、「が」に接続する「ある」が存在の概念を表し、「で」に接続する「ある」は判断的陳述を表している。しかし、
● 講演は講堂である。
 のような例においては、講演は講堂で行われるという風に「ある」を存在概念として理解する場合と、講演は講堂だ、というように「ある」を判断の表現として理解する場合とが考えられる。この相違を文法的に理解すれば、一方の「ある」を概念表現の詞とし、他方を主体的な表現である辞としなければならないと思う。
 それは以下のように図解できる。
● 講演は(主語) 講堂で(補語) ある(述語)*「ある」は「行われる」という意味で、詞である。
● 講演は(主語) 講堂で(述語) ある(辞)*「ある」は判断の表現で、辞である。 同様なことは、次の歌についてもいえる。
● 我が命も つねにあらぬか 昔見し 象の小河を 行きて見る為(「万葉集」)
 「つねにあれかし」の「あり」を存在詞(抽象的な概念を表す動詞・山田孝雄氏「日本文法学概論」)として見れば、「常にあれかし」に意味になるが、判断辞として見れば「常であれかし」「不変なれ」の意味となる。


 辞として考えられる「あり」の用法は、
《「に」と結合して》学生なり(に・あり) あはれなり(に・あり) 物にも「あら」ず
《「と」と結合して》事と「あり」 わざと「ある」上手ども なかなかに人と「あら」ずは
《副詞と結合する場合は》うたて「あり」 かく「あれ」ば
《「で」と結合して「だ」「じゃ」となった場合は》人「だ」 本当「じゃ」
《「あり」が場面の制約を受けて、主体の敬意を表現する場合は》私は男「です」 山は高い「です」 水は流れる「です」 これは私の本で「ございます」 結構で「ございます」
 以上の例は、すべて存在の概念を表すことはなく、「何々だ」という陳述を表すものであることは明らかである。
 陳述を表す「あり」と結合する「で」「に」「と」等は、元来それだけで判断的陳述を表すことができるが、中止的用法にのみ用いられ、他の場合には「あり」と結合して、判断的陳述を完成する。中止的用法は例えば以下の例である。
●艦隊は威風堂々「と」入港した。 ●月明らか「に」、星稀「に」、烏鴇南に飛ぶ
●結果は不首尾「で」またやり直した
「と」「に」「で」を陳述と見るならば、述語はそれぞれ「堂々」「明らか」「稀」「不首尾」であり、「と」「に」「で」は他の辞と同様に、それらの述語に対応する主語を総括して句を統一するのである。


【感想】
 ここで著者は、一般に動詞と考えられている「あり」(口語では「ある」)という語が、詞ではなく辞として使われていることを説明している。
「梅の木がある」という時の「ある」は存在を表す詞(動詞)だが、「梅の木である」という時の「ある」は、「だ」という判断を表す辞である、ということである。
 辞として考えられる「あり」の用法としては、「学生なり」(に・あり)、「あはれなり」(に・あり)、「物にもあらず」、「事とあり」「わざとある上手ども」「なかなかに人とあらずは」「うたてあり」「かくあれば」などという例を挙げ、すべて「何々だ」という陳述を表していると説明している。
 また、陳述を表す「あり」と結合する「で」「に」「と」等は、それだけで判断的陳述を表せるが、中止的用法の時にだけ用いられ、他の場合には「あり」と結合して判断的陳述を完成するということである。中止的用法とは、威風堂々「と」・・・、月明らか「に」、星稀に・・・、結果は不首尾「で」・・・、などのように、「堂々」「明らか」「稀」「不首尾」という述語に対応する主語を総括して句を統一する場合をいう。
 私が学んだ「学校文法」では、この「あり」を、助動詞の中に「補助用言」として位置づけていた。〈「○○である」は、助動詞の「○○だ」、「○○てある」「○○ている」は助動詞の「た」に当たるものであることが知られる〉という説明の後に、この本はおもしろく「ない」、手紙を書いて「しまう」、ひとりで行って「みる」、かりに分けて「おく」などの「ない」「しまう」「みる」「おく」も補助用言としている。さらに尊敬を表す「いすにかけていらっしゃる」「どうぞ聞いてください」「お出かけになる」の「いらっしゃる」「ください」「なる」なども補助用言だとしている。
 その見解について、著者はどのように考えるのだろうか。以後を読み進めることで明らかになることを期待したい。(2017.10.7)