梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・7

《六 フェルディナン・ド・ソシュールの言語理論に対する批判》
一 ソシュールの言語理論と国語学
 19世紀初頭の近代言語学の問題は、主として言語の比較的研究及び歴史的研究であったが、19世紀後半、ソシュールが出て言語学界に新たな局面を開いた。それは、これまでの研究の他に、言語という事実そのものの研究が重要であることを強調したことである。ソシュールは、言語状態の科学、あるいは静態言語学を共時言語学と称し、史的言語学、通時言語学に対立させた。神保格氏が欧米留学より帰朝し、大正13年にソシュール言語学を紹介された。その後、小林英夫氏はソシュールの遺著を翻訳して、言語学原論として出版されてから、ソシュールの名は遍く我が学界に知られるようになり、国語学に与えた影響も甚大であった。
 国語学界に限らず、今日我が国学術界において最も必要なことは、泰西の既製品的理論を多量に吸収してこれを嚥下することではなく、批判的精神に生き、あくまで批判的態度でこれを取捨選択し、自己の理性に訴えて、我が国学術進展の基礎として受け入れねばならぬということである。
 今、私は旧国語研究の発展より導かれた、私の「言語過程説」の輪郭を明らかにするために、ソシュールの言語理論、理論的構成を吟味することによって、私の理論を明らかにしていこうと思う。


二 言語対象の分析とランガージュの概念の成立について
 私は、言語研究の方法は、まず対象である言語自体を観察することから始められなければならないと考える。言語学の体系は、言語そのものの発見過程の理論的構成に他ならない。これを自然科学について考える見ると、自然科学的対象の構造分析は、対象の構造形式によって規定されている。例えば、生物体は、その組織において細胞の並列的構造形式のゆえに、構造分析が可能とされる。この分析方法があらゆるものに適用できるかというと、その対象の構造の相違に従ってその分析もまた異ならざるを得ないのである。ソシュールが、言語の分析に用いた方法を、その対象との相関関係において見る時、はたしてこのような方法が守られているであろうか。ソシュールの言語理論に対する疑いは、まず最初にこの点にあるのである。ソシュールは言語活動の分析において、まず対象の中に、それ自身一体なるべき単位要素を求めようとする。
 言語活動は最も具体的な対象であるにもかかわらず、これを捨ててその中にさらに「言語」(ラング)を求めようとする根本的な理由は、言語活動が混質的であって、それ自身一体なるべき単位をそこに見出すことができないからであるというのである。音は聴覚と音声との結合したものだから、それは単一単位ではなく、精神物理的複合単位であるというのである。こうして単一単位を求めようとする彼の態度には、明らかに、科学の出発点は単位の認識から始められねばならないいうことがあることがわかる。この意図は、すでに対象の考察以前において、対象に対して自然科学的な原子的構成観で臨んでいることを示すものである。我々の具体的な対象は、精神物理的過程現象であるにもかかわらず、それをそれとして把握せずに、混質的であることを理由に、他に等質的な単位要素を求めようとすることは、明らかに対象からの逃避であり、方法で対象を限定したことになるといわなければならない。具体的な対象を限定して、その中に自己の要求する(それ自身一体なるべき)「言語」(ラング)を学の対象として定立できても、それは具体的な言語経験自体の考察を意味しないことは明らかである。我々の学問の目的は、具体的な言語経験それ自体がいかなるものであるかを尋ねようとしているのである。自然科学の見出した究極不可分の単位である原子は、自然科学的対象の構造形式に規定された必然的結論であるが、同様なことが言語の場合にも適用できるかどうかは疑問である。
 こうしてソシュールが対象として見出した「言語」(ラング)なるものは、はたして彼が考えたように、それ自身一体なるべき単位であったろうか。まず「言語」(ラング)とは何であるか。ソシュールは次のように述べている。
①それは言語活動の諸事実の雑然たる雑体のさなかにおいて、はっきり定義された対象である。その在所を循行に一定箇所に求めることができる。それは、聴覚映像が概念と連合する場所である。
②(省略)
③言語活動は異質的であるが、上のごとく限定された言語は、もともと等質的である。
④言語が具体的性質の対象たることは、言とえらぶところがない。(中略)それの総体が言語を組み立てるところの連合は、その座を脳中に有する実在である。
 この「言語」(ラング)という概念について、小林氏は次のように敷衍し説明を加えられた。
◎言語とは何であるか。言うこと、それがすなわち言語ではないか。言うこと以外に言語なるものがあるであろうか。あると考える。私がいま貴方に、今日町へ買い物に行って下さいませんかと言うとすれば、この行為はたしかに私の言である。けれどもこの行為が可能なるためには、私の脳裏に、今日なり町なり買い物なり行くなり下さいなりの語があらかじめ蓄積されていなければならない。それと同時に、それらの語を一定の順に従って結合する習慣もまたついていなければならない。語とそれの習慣的結合様式とが言語の本体である。(「文法の原理」)
 この考え方は、ソシュールが、「言語は、言の運用によって、同一社会に属する話し手たちの頭の中に貯蔵された財貨であり」といった言葉に対応するものである。以上のごとき「言語」(ラング)と「言語活動」(ランガージュ)との区別に従って、「言語」(ラング)を「体としての言語」、「言語活動」(ランガージュ)を「用としての言語」と呼ぶこともある。(「国語音韻論」金田一京助博士)
 ソシュールの「言語」(ラング)がはたしてそれ自身一体なるべき等質的単位と考えられるであろうか。ソシュールに従えば、「言語」(ラング)は、聴覚映像と概念との連合したものであるという。しかし、我々の具体的な言循行において経験できるものは、聴覚映像と概念の連合したものではなく、聴覚映像が、概念と「連合すること」以外にはない。連合するという事実から、ただちに連合し、結合した一体的なものが存在すると考えるのは、論理の大きな飛躍でなければならない。ソシュール理論の第二の欠点はここにあるのである。ソシュール自身「言語」(ラング)について別の個所で次のように述べている。「それゆえ言語記号は二面を有する心的実在体である」「この二つの要素はかたく相連結し、相呼応する」
 彼自身が認めているように、「言語」(ラング)は心的なものに違いないが、それは単一体ということができない。かつ、一方が他方に呼応し、あるいは一方が他方を喚起するということであれば、それは結合されたものではなく、継起的な心理現象と考えなくてはならない。聴覚映像と概念とが、脳髄の中枢において連合するという事実は、心理学的にも生理的にも証明されることであるが、それが連合という主体的な精神生理的現象である限り、これを構成的客体に置き直して考えることは許されないのである。このようにして、言循行において求めた「言語」(ラング)は、単一単位でないだけでなく、二面の結合とも考えられないものであり、あくまで精神生理的複合単位であり、厳密にいえば、聴覚映像→概念、概念→聴覚映像として連合する継起的な精神生理的過程現象に他ならないのである。継起的過程を、並列的構造の単位として認めるということは、(常識的便宜的説明としては許されるとしても)学問の体系に矛盾をきたすような場合には、断じて許すことはできないのである。
 以上述べたように、ソシュールの言語研究の出発点は、まず言語において単位的要素を求めることに性急だったのである。そして、ソシュールは「言語」(ラング)を心的なものとして考えているにもかかわらず、その存在の形式は自然科学的対象となんら変わらない。いわば「言語」(ラング)は人間の精神中に座を占めている自然物であって、主体を離れた存在である。
「言語は言とは趣を異にし、切り離して研究しうる対象である。我々はもはや死語は話さないが、その言語的組織を我がものにすることができる」(ソシュール)
「言語」(ラング)はこのように話し手の機能を除外した存在だが、一方ソシュールはまた「言語」(ラング)の要素について「この二つの要素はかたく相連結し、相呼応する」といっているところを見れば、相連結し、相呼応する作用は、人間精神の作用によるより外ないのだから、「言語」(ラング)は主体的機能がなければ考えられない存在であるとも考えられている。このような矛盾は、つまり、主体的活動である言語を、自然科学的単位の概念で説明しようとしたために生じていると考えられる。
 ソシュールの「言語」(ラング)の概念は、また別にデュルケムの社会学説に胚胎する社会的事実の思想によって導かれたものであることは、一部の学者によっていわれていることであり、この系統関係がたとえ事実でなく、それがソシュールの独創だとしても、その思想的近似性はきわめて濃厚なので、その方面からも考察する必要があるだろう。それについては、四で述べることとする。


【感想】
 ここでは、著者のソシュール理論批判の前半が述べられている。まず当時の学術界に「泰西の既製品的理論を多量に吸収してこれを嚥下する」風潮があることを指摘し、「批判的精神に生き、あくまで批判的態度でこれを取捨選択し、自己の理性に訴えて、我が国学術進展の基礎として受け入れねばならぬ」と、自らの姿勢、立場を明らかにしたうえで、言語を、自然科学の分析的方法で観察することに疑問を投げかけている。
 「ソシュールは言語活動の分析において、まず対象の中に、それ自身一体なるべき単位要素を求めようとする」。その単位要素を「言語」(ラング)と称し、「それは言語活動の諸事実の雑然たる雑体のさなかにおいて、はっきり定義された対象である。その在所を循行に一定箇所に求めることができる。それは、聴覚映像が概念と連合する場所である」と定義しているが、「我々の具体的な言循行において経験できるものは、聴覚映像と概念の連合したものではなく、聴覚映像が、概念と「連合すること」以外にはない」という辺りが、著者の最も重要な論点だと、私は思う。つまり、「聴覚映像と概念が連合したもの」ではなく、「聴覚映像が、概念と《連合すること》」が言語の本質であるということである。著者は、ソシュールのいう「言語」(ラング)について以下のような見解(自説)を述べている。


◎「言語」(ラング)は心的なものに違いないが、それは単一体ということができない。かつ、一方が他方に呼応し、あるいは一方が他方を喚起するということであれば、それは結合されたものではなく、継起的な心理現象と考えなくてはならない。聴覚映像と概念とが、脳髄の中枢において連合するという事実は、心理学的にも生理的にも証明されることであるが、それが連合という主体的な精神生理的現象である限り、これを構成的客体に置き直して考えることは許されないのである。このようにして、言循行において求めた「言語」(ラング)は、単一単位でないだけでなく、二面の結合とも考えられないものであり、あくまで精神生理的複合単位であり、厳密にいえば、聴覚映像→概念、概念→聴覚映像として連合する継起的な精神生理的過程現象に他ならないのである。継起的過程を、並列的構造の単位として認めるということは、(常識的便宜的説明としては許されるとし ても)学問の体系に矛盾をきたすような場合には、断じて許すことはできないのである。


 つまり、聴覚映像と概念の一方が他方に呼応し、一方が他方を喚起することは継起的な心理現象であり、「言語」(ラング)を構成的客体に置き直して考えることは許されない、また「言語」(ラング)は、単一単位、二面の結合ではなく《精神生理的複合単位》であり、厳密にいえば、聴覚映像→概念、概念→聴覚映像として連合する継起的な精神生理的過程現象に他ならない、ということである。
 さらにソシュールは、「言語」(ラング)というものが「脳中に有する実在である」というが、その点についても《ソシュールは「言語」(ラング)を心的なものとして考えているにもかかわらず、その存在の形式は自然科学的対象となんら変わらない。いわば「言語」(ラング)は人間の精神中に座を占めている自然物であって、主体を離れた存在である》という指摘(批判)が、たいそうおもしろかった。
 ソシュールは「言語が具体的性質の対象たることは、言とえらぶところがない」とも述べている、その《言》とは何か。いきなり登場した言葉なので、理解できなかった。
 次節は、後半である。興味深くていねいに読み進めたい。(2017.9.7)