梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「国語学原論」(時枝誠記著・岩波書店・1941年)精読・8

三 「言」(パロル)と「言語」(ラング)との関係について
 今仮に、ソシュールがいうように、聴覚映像と概念との結合した精神的実体が存在するとして、「言語」(ラング)と「言」(パロル)とはどのような関係になるのだろうか。小林氏は次のように説明する。
◎言とは何であるか。それは、言語での体験の自覚的表出である。(「文法の原理」)
◎言語は潜在する言であり、言は言語の実現である。両者は連帯的ではあるが同じものではない。(「同上」)
 この考え方は、ソシュールが「言語は言の運用によって、同一社会に属する話し手たちの頭の中に貯蔵された財宝であり」といっていることに対応し、言主は「言語」(ラング)という財宝の使用者である。しかし、我々はそこに古き言語道具観の変形、あるいは論理づけを見ないであろうか。道具は元来主体の外に置かれたものである。主体がこれをある目的で使用することによって、道具としての意味が生かされ、目的が達せられる。「言語」もちょうどそれと同様に考えられているのである。
 「言語」(ラング)を介して、話し手が思想を表現しようとする時、話し手の思想と「言語」(ラング)の間にどのような関係が成立するか。「言語」(ラング)で行う思想の表現とは、どのような事実をいい、話し手のどのような活動が必要とされるか。小林氏は次のように説明している。


◎潜在的なものである「言語」(ラング)は、その数は有限だが、その質は無限である。例えば、町を指す語として私は町という語一つしか知らないが、どのような町を指すかはあらかじめ決定されていない。私がいま貴方に向かって町へ行って下さいと言った瞬間に、町の意味は決定されてくる。無限者が限定されるのである。(「文法の原理」)
◎言は個別的である。個別的なものが他者に理解されるためには、一般的なものの存在が予定されなければならない。言は言語の実現によってはじめて理解されるのである。(「同上」)
◎語はそれ自身の姿で適当な文脈に置かれることによって、我々の内面的生活を表現するのである。(「同上」)
◎活動における語は、意識的であり個性的であり、従って性格的である。(「同上」)


 このソシュール的理論において、第一の「言語」(ラング)が「言」(パウル)によってその意味が限定されるという考え方は、次のような例では、一見極めて妥当であるかのように考えられる。例えば、「本を読みました」という時の「本」は、今私が読んでいる特殊な「本」に限定されたと一応は見ることができる。私の持っている特殊な「本」が、この「言語」(ラング)によって表現されていると見ることもできる。しかし、子細に検討すると、この説が当たらないことを見つけるのはそれほど困難ではない。例えば、一家の働き手である息子を失った老人が、「私は杖を失った」「家の大黒柱が倒れた」などといった時、この「杖」「大黒柱」というような「言語」(ラング)が、特定の息子に限定されたと見ることができるだろうか。もし限定されるものと考えられるならば、この老人は、ただ「息子」という語を使用するだけでもよいので、特に「杖」とか「大黒柱」とかの「言語」(ラング)を使用するということは無意味でなければならない。また「息子」という語が、もし特定の個人をいい表すように限定されるとしたら、この老人は、未知な人に対して、ただ「息子が死にました」といっただけで、聞き手は、この語に限定されたあらゆる意味を理解しなければならないはずである。ところが事実はまさにその逆であって、聞き手はただ概念的な語しか理解できない。従ってもしどんな息子であるかを知らせるためには、言語の修飾とか、描写とかいうことが必要とされてくるのである。それでも、結局は概念的に止まり、個物を個物として表現することはできないのだが、一方からいえば、それが言語の言語たるところである。
 小林氏の説明の第二は、第一に対して矛盾している。他者の理解のためには一般的なものが必要とされ、「言語」(ラング)がそのような役目を果たすものと考えるなら、「言語」(ラング)が「言」(パロル)において限定されるということは無意味である。個物を一般的に表現してこそ理解が可能となるのである。
 第三の、語が文脈において話し手の内面的生活を表現し、文脈において語が個性的となり、性格的となるということは「言語」(ラング)の使用によって実現すると考えられているが、それに先だって、話し手が一つの「言語」(ラング)を他より優先的に選択し、使用するには、素材と「言語」(ラング)の間に、どのような契機があって結合するかを問うことなしに、この問題は解決できないと思う。例えば、一匹の馬を表すのに、なぜ馬という「言語」(ラング)が使用されるか、または「動物」という「言語」(ラング)が使用されるかは、「言」(パロル)と「言語」(ラング)との関係を考える上で重要な問題である。単に「言語」(ラング)が「言」(パロル)において限定されているということだけでは解決することができない。
 以上、ソシュールの言語理論における「言語」(ラング)と「言」(パロル)の関係を、彼の「言語」(ラング)の概念を肯定することによって理路を辿ったが、今はその矛盾を指摘するだけに止める。第八、第九項の説明でそれは一層明らかにされるだろう。
 一言加えて置きたいことは、我々の観察の直接的、具体的対象になるものは、ソシュールの名称を借りるなら、精神物理的「言」(パロル)循行であって、それ以外のものではない。「言」(パロル)循行中に「言語」(ラング)を定位することは、すでに「言」(パロル)循行に対する科学的操作であり、「言語」(ラング)の概念は、一つの学問的結論なので、具体的な対象ではない。我々の具体的な経験的対象と、学問的認識の結果とを同列に我々の観察の対象と考えて、「言」(パロル)の言語学と「言語」(ラング)の言語学とを対立させるソシュール的見地は承認しがたい。それはあたかも、個々の動物の外に、機能的概念である哺乳動物がそれと同列同格として存在すると考えることに等しい。上のような結論は、具体的な「言」(パロル)循行が科学の対象としては混質的であり科学的考察に堪えないとして、それ自身一体なるべき単位要素を求めようとしたことに起因する。混質的なものが、科学の対象として堪えられないとすれば、「言」(パロル)の言語学ということもまた大きな矛盾である。我々の学問において、対象が混質的であることを懼れる必要がないと同時に、単位を求めて、それによってすべてを律しようとする自然科学的態度方法を蝉脱しなければならない。絵画は種々なる要素の混淆から成立しているにもかかわらず、絵画として統一原理を持っている。言語においても全く同様であることを知る必要があるのである。


【感想】
 前節で理解できなかった《言》とは何か、が判明した。それは(潜在的な、脳中にあるとされる「言語」(ランゲージ)が「実現」したものである。私は現職時代「言語治療教育」に携わったことがあるが、そこで言語を「スピーチ」と「ランゲージ」という言葉が取り沙汰されていたことを思い出す。「言語障害」とはスピーチの障害であり、ランゲージの障害は「言語発達遅滞」と区別していた。 
 また、中学校時代、「言葉とは何か」と問われ「自分の考えや気持ちを相手に伝える道具のようなもの」と答えた憶えがある。著者によれば、それは「古き言語道具観」に過ぎないということである。
 小林英夫氏はソシュール理論を踏まえて、「言とは言語体験の自覚的表出」であり「言語は潜在せる言であり、言は言語の実現である」と説明している。また、「言語(ラング)は数においては有限だが質においては無限である」「言語(ラング)が言(パロル)として実現した瞬間、無限者が限定される」「言(パロル)は個別的であり、他者に理解されるためには、一般的なものの存在(「言語」(ラング))が予定されなければならない。言(パロル)は言語(ラング)の実現であってはじめて理解されるのである」とも述べている。
 これに対して著者は、「言語」(ラング)が「言」(パロル)において意味が限定されるという考え方は、一見妥当であるように考えられるが、子細に検討すると、この説は当たらないと批判している。
《妥当と思われる例》私が「本を読みました」という時の「本」は、今私が読んでいる特殊な本に限定された、私の本が「本」という「言語(ラング)で表現されていると一応は見ることができる。
《当たらない例》一家の働き手である息子を失った老人が「私は杖を失った」「家の大黒柱が倒れた」などといった時、「杖」「大黒柱」という「言語」(ラング)が、特定の息子の意味に限定されたと見ることはできない。もし「言語」(ラング)が限定されるものと考えるならば、老人はただ「息子」という語を使うだけでもよいので「杖」「大黒柱」という言語(ラング)を使うことは無意味でなければならない。
 また、小林氏が「言は個別的である。個別的なものが他者に理解されるためには、一般的なものの存在が予定されなければならない。言は言語の実現によってはじめて理解されるのである」と説明していることに対しても「他者の理解のためには一般的なものが必要とされ、言語(ラング)がその役目を果たすものと考えるならば、言語(ラング)が言(パロル)に限定されることは無意味である。個物を一般的に表現してこそ理解されることが可能となるのである」と、「言語」(ラング)が「言」(パロル)において意味が限定される」という考え方との矛盾を指摘している。 
 その論脈を私自身は十分に理解したとはいえないが、ともかく著者は「今はただその矛盾を指摘するに止める」と記しているので、第八、第九項の説明に期待したい。
(2017.9.8)