梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「英語でしゃべらナイト」

 NHKに「英語でしゃべらナイト」という番組がある。私が知りたいことは、その次にどのような文末を想定しているのだろうか、ということである。「一人前ではない」「国際社会では通用しない」「これからは生きていけない」などの文末が想定されるが、いずれにせよ、「英語をしゃべれること」は有為であり、社会生活の中で「優位」に立てるといった価値観に基づいていることは間違いないだろう。思うに、「日本語をしゃべれる」人にとって「英語をしゃべる」ことは、それほど難しいことではないだろう。現代の日本人は中学校で3年間、高校進学者は、さらに3年間、大学進学者はそのうえ数年間、英語を学習している。しかし、「学校教育」だけで「英語をしゃべれる」ようになった人は皆無に等しいのではないだろうか。そうでなければ「駅前留学」などという学習塾が、これほど繁盛するはずがない。「学校教育」だけで「英語をしゃべれる」ようにならないのはなぜか。「英語教育」の方法が間違っているからである。(英語教育の専門家が「しゃべることは目的にしていない。読むことの方が大切だ」と言ってしまえばそれまでの話だが・・・。ちなみに、「中学校学習指導要領」では、「英語で話すことに慣れ親しみ、初歩的な英語を用いて自分の考えなどを話すことができるようにする」<第9節外国語 第2各言語の目標及び内容等 1目標 (2)>とある。)「英語をしゃべれる」ようにするためには、「英語を聞き分けられる」ようにすることが必要不可欠である。しかし、現行(学校)の「英語教育」では、「聞く学習」が重要視されていないのではないだろうか。 昨年、ある研修会で話したことを思い出した。以下は、その一部である。


 さて、私は今、日本語を話しています。しかし、英語を話すことはできません。中学校、高校、大学と10年間も英語を勉強したはずなのに、英語を話すことはできません。なぜでしょうか。また、日本語は、特にとりたてて勉強したわけではないのに、気がつくと、話せるようになっていました。なぜでしょうか。
 日本語を話せるのに英語は話せない、その理由は、私の頭の中に日本語は入っているのに英語は入っていないからです。学校で10年間も勉強したのに、どうして入らなかったのでしょうか。答えは簡単です。「入れ方」を間違えたのです。私は中学校で、教科書を見ながら、アルファベットの「文字」を読んだり、書いたりすることから始めました。つまり、英語を「見る」「書く」という方法で頭の中に入れようとしたのです。言い換えれば、英語を「文字言語」として、頭の中に入れようとしたのです。では、日本語の場合はどうでしょう。私は、物心ついたとき、すでに日本語を話せるようになっていました。それ以前に「五十音」や「かな文字」の勉強をしたおぼえはありません。にもかかわらず、私は日本語を話せるようになったのです。なぜでしょうか。日本語を「文字言語」として頭に入れようとしなかったからでしょう。言い換えれば、日本語を「音声言語」として、頭に入れたからです。「見る」「書く」という方法ではなく、ただひたすら「聞く」という方法で日本語を学んだからだと思います。中学校以後の英語の学習を思い出してみても、「聞く」という方法は、「見る」「書く」に比べて、大変わずかだったように感じます。母国語と外国語の学習方法が異なることは当然でしょうが、それにしても「聞く」活動は少なすぎました。その結果、私は英語(文字)を「見たり」「書いたり」すれば、ある程度その意味を理解できるのに、「聞いただけでは」ほとんど理解できないという、「学習障害」の状態に陥ってしまったのです。言語発達の筋道で考えれば、まず、①聞いて理解する、②聞いた音声を再現する,③音声と文字を対応(マッチング)する、④文字を音声化する(音読)という順序をたどるのが自然です。しかし、私の英語学習は、いきなり③の音声と文字を対応する(アルファベットを音読する)というステップから始めたため、①②の「音声言語」を聞いたり話したりするというステップが「未履修」だったということになります。
 言語を身につけるうえで、最も大切な学習は「聞く」という活動です。「聞く」ことによって、その言語の音韻体系、意味を頭の中に取り入れ、定着することができるのです。しかし「聞く」という活動は、目に見えません。学習活動としては「評価」しにくいという特徴があります。「話す」という活動も、テープに録音しなければ記録できず、その結果を「評価」することがむずかしいでしょう。そんなわけで、中学校からの「英語教育」は「文字言語」偏重になってしまったのかもしれません。
私が今、日本語を話せるのは、耳がよく聞こえていたからです。日本語を「聞く」ことができたからです。「聞く」ことによって、日本語の音韻体系、意味を頭の中に取り入れ、定着することができたからです。おそらく、私はそのことを、生まれて3年間の間にやり終えていたのでしょう。ですから、私はそのことをはっきりとは憶えていません。気がついたときには、もうあたりまえのように、日本語を話していたのです。3歳頃の思い出として、私は「カジミマイ」という言葉を思い出します。私が「カジミマイ」と言うと、周囲の大人が笑うのです。本当は「紙芝居」と言わなければならなかったのに、私は「カジミマイ」としか発音できなかったのでしょう。まだ、日本語の音韻体系を的確に聞き分けることができず、正確に発音できない段階だったと考えられます。しかし、周囲の大人は「好意的」に笑って「許して」くれました。まだ3歳だから、正確な発音でなくても、日本語として認めてくれたのだと思います。その結果、私は大きなダメージを受けることなく、自信を失うことなく、日本語を身につけることができたのです。
 一方、私が今、英語を話せないのは、なぜでしょうか。前にも述べましたが、「英語」を「聞く」ことができなかったからです。耳がよく聞こえているにもかかわらず、英語の音韻体系や意味を的確に聞き分けることができないからだと思います。学校で10年間、英語の学習を行いましたが、単語のスペルを「見て」「書いて」憶える、名詞の単数形・複数形、格変化、動詞の現在・過去・未来、関係代名詞などなど、正しい文法を憶える、そして文章を「和訳」すること等に終始し、最も大切な「聞く」という学習はほとんど行わなかったのです。また、学校では、「カジミマイ」のような「誤り」を、「笑って許してもらえる」雰囲気はありませんでした。スペルの一文字が違っただけで「厳しく」訂正されるのです。そのことが繰り返されれば、自信を失い、意欲が減退することは当然の結果だと思います。
 言語を身につけるうえで、最も大切な「留意点」は、「楽しく」「いい気になって」「笑って許してもらえる」雰囲気づくりではないでしょうか。
 以上を要約すると、言語の学習で最も大切な学習は、「聞く力」を育てることであり、それは「楽しい」雰囲気の中で行われることが有効的である、ということです。 
(2008.1.14)