梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

テレビコマーシャルは「文化的な無差別テロ」だ!

 たまに民放テレビを視ていると、ドラマでもバラエティーでも、ちょうど「次を観たい」と思ったときにコマーシャルが入る。視聴者を惹きつける常套手段とはいえ、番組制作者の魂胆は下劣という他はない。「人の心を操作する(もてあそぶ)」、「見せてやっている」という優越意識が「まるみえ」だからである。彼らは、日常生活の中でも、そのような手段を多用しているのだろうか。今日もまた、昔、綴った雑文を思い出した・
(2008.1.4)


 テレビが日本の文化を駄目にしている。映画「生きる」の監督・黒澤明は自分の作品をテレビで放映することを極端に嫌ったそうだが,途中で無関係な広告映像が次々と挿入され,本来の作品とは似ても似つかぬ代物に変貌させられてしまうのだから,当然なことであろう。そればかりではない。コマーシャルという広告映像は,視聴者の感性,認知能力をも「暴力的に」破壊してしまうおそれがある。アニメーション番組を見ていた幼児が,発作を起こして入院した例もあった。
コマーシャルという広告映像は,受信者の視聴覚を繰り返し刺激し続けることで,必要な情報を無批判に記憶させることを目的としている。
テレビの初期には,ドラマであれドキュメンタリーであれ,ノンフィクションであれ,それなりのテーマを表現できる時代もあったが,今では,コマーシャルという広告映像を放映し続けることがテレビの目的になった。細切れにされた作品やワイド,スペシャル等と名付けられたスキャンダル,見せ物番組,井戸端会議の垂れ流しに終始しているのが現状である。
視聴者は,それらを見続けることで,日常と非日常の世界をさまよいながら,心の底から感動することもできず,おのれの感性や認知能力,批評精神(クリティシズム)を日に日に鈍磨させていく,しかもそのことに気づいていない。正に「文化的な無差別テロ」といっても過言ではないだろう。(2004、1.4)