梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・39

2 日本語改革の問題
【要約】
 これまで、漢字の制限、かなづかいの改正、むずかしい語をやさしい語に変えること、標準語の確立、敬語の整理などについて多くの論議が行われ、改革が実行されてきた。
 軽率な改革が全体の混乱を招かないように慎重に考えなければならない。
 かなづかいは音声のありかたを忠実に写すように改めなければならない、という主張そのものは正当だが、言語の場合の「忠実」ということは、写真の場合のそれとはちがう。音声の一定の種類の面で、言語としての表現が行われているのだから、文字の種類をこの音声の種類の面に正しく対応させることが「忠実」に写したことになるのである。
 かなづかいの改正は、言語表現としての「忠実」を求めるものであって、音声に忠実であろうとするものではない。従って、《音声に対する文字の対応には一定の限界がある》ことになる。言語表現が二重性を持っていることの理解がないと、文字は音声を忠実に写すように改めなければならないという、まちがった考えを持つようになり、まちがった表現を行う結果にもなる。新かなづかいが助詞「は」「へ」「を」を認めているのは不徹底だから、「わたくし(わ)」「おしごと(お)」「がっこう(え)」と表現すべきだ、と主張する人たちもある。けれども、多くの音節から成立している語を部分的に改めることと、一音節の語を全体的に改めることとは区別して考えなければならない。似た発音を「お」と「を」に書きわけるのはややこしいと考えるのでなく、助詞の「を」は接頭語の「お」と対立した性格を持つちがった内容を表現する語だということをも考えに入れる必要がある。文字の表現を云々する前に、ちがった内容が同じような音声で表現されていることを問題にする必要がある。表現としてあるべきかたちを求めるなら、音声に従属させて同じ文字を使うのではなく、音声のありかたが内容のちがいをハッキリ表現するようなものであってほしいということになるのである。文字言語は音声言語の従属的な存在だという考えを持つとき、音声言語のありかたを絶対化して、改めるべきものは文字の側だという一面的な意見がでてくることを反省してほしいと思う。これと同じことが、漢字の制限のついてもいえる。
 漢字が輸入されたことは、日本語の表現能力を一躍してひろげたという意味で、大きなプラスの面を持っていたと同時に、音声言語の発展を制約したという意味で、大きなマイナスともなった。漢字の輸入が日本語の発展にどういう影響を及ぼしたかについては、まだ充分に理解されてはいない。漢字は覚えにくい、書きにくい、だからこれを単純化しよう、やめよう、という素朴な考えだけでは、改革は不可能である。日本語の歴史の中で、漢字がどのような役割を演じたかを考えてみなければならない。漢字と音声とは別々のかたちで存在しているが、日本語の発展の中では骨がらみになって結びついているのである。 標準語と方言との関係を問題にするとき、まず考えなければならないことは、「よい言語」とか「よくない言語」とかいわれる場合、何がよいのか何がよくないのか。その内容を具体的につかむことである。日本語の中に標準語をつくりあげなければならないというのは、日本人全体をつらぬいて思想を伝達する必要があるからであって、方言ではこの伝達が妨げられ、社会生活をおしすすめていく上に大きな影響を及ぼすからである。この意味では、方言は「よくない言語」である。しかし、方言はその地方の標準語であり、その地方での思想の伝達に重要な役割を演じていることは否定できない。
 わたしたちの生活が、いろいろの領域を持ち、立体的なかたちをとっているのに対応して、家庭の中では家族語ともいうべき愛称を語り、村や町の人たちとは方言で話し、学校や官庁では標準語を語り、外国へ出す手紙は外国語で綴るというような多面的な言語生活をすることになる。
 芸術にあっては、(その目的に応じて、登場人物に)標準語や方言を語らせている。
 日常生活においても、芸術の場合にも、方言は否定すべきか支持すべきか、具体的な条件をぬきにしてどちらか一方にきめてしまいことはまちがいである。


【感想】
 ここでは「日本語改革の問題」について述べられている。「かなづかい」「漢字制限」「標準語」について触れながら、著者は、性急で表面的な改革には否定的であることがよくわかった。著者はこの節でタカクラ・テルの「ニッポン語」から以下の文を引用している。
「ニッポン語の発音が、もとは、ひじょうにふくざつなものであり、ナラ朝ころまでは、まだ、他の『ウラル・アルタイ語族』と同じていどのふくざつな特色を持っていたことは、まえにのべたとうりだ。それがヘイアン朝ころから、急にはったつを始め、どんどん変化して、とうとう、今のように、世界でもっとも単純化した音のくみたてにまで達した。単純化が、すぐに、合理化であり、科学的に正しいせいりであればこそ、これをはったつといい、進化ということができる」。
 その内容は措くとして、文字表記だけを見た時、私自身は以下のように改めた方がわかりやすいと思った。
「日本語の発音が、もとは、非常に複雑なものであり、奈良朝ころまでは、まだ『ウラル・アルタイ語族』と同じ程度の複雑な特色を持っていたことは、前に述べた通りだ。それが、平安朝ころから、急に発達を始め、どんどん変化して、とうとう、今のように世界で最も単純化した音の組み立てにまで達した。単純化が、すぐに合理化であり、科学的に正しい整理であればこそ、これを発達といい、進化ということができる」。
 どちらがわかりやすいかは、見解(主観)の相違によるが、「漢字かな混じり文」の表現においては、漢字と仮名文字の排列のバランスがポイントになると、私は思う。要するに、仮名文字が続くとわかりにくくなり、ほどよい割合で漢字が不可欠になるということである。著者の文字表記においても、通常は漢字表記にするところを、あえて仮名表記にしている部分が目立つが、それもまた「日本語改革」の試みかもしれない。
(2018.2.28)