梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・29

b 時の表現と現実の時間とのくいちがいの問題
【要約】
 言語において過去や未来のありかたをとりあげる場合、日本語では助動詞を使う。ところが、現在形で表現する場合がある。
● 宇宙は永遠に存在(する)。
● 明朝行き(ます)。
 現実から見て動詞の原形を「現在形」とよぶこと自体当を得たものではないという声が高くなっている。細江逸記氏は「動詞時制の研究」の結論として、時制は主観的なもので「時の区別とは何の関係もない」とした。小林好日氏の意見も結論は同じだが、「多くの文法家が現在形はみな現在をあらわすものと考え、これを観念上において説明しようと企てたのは、言語と論理を混同したものと言わずばなるまい」と不満を述べている。この問題は、文章心理学を研究する波多野完治氏によってもとりあげられ、「歴史的現在」が検討された。細江逸記氏は、現在形に「直観直叙」の語法であるという統一的な説明を与え、波多野氏もこれを支持している。
これらの人たちは、①言語をはなれて、ほかの表現の分野の「歴史的現在」を発見し、それを検討する必要があった。(例・ニュース映画、シナリオの文章など) ②過去現在未来というのは何をさす言葉なのか反省してみる必要があった。
 ②の問題について検討してみる。
 現在とは、時間的な経過のうちの一点である。「彼は現在健康だが、過去には病気がちだった」というとき、彼は時間的な存在である。そこで、過去現在未来というのは、事物そのものの時間的な性質だという結論を出すことになるが、そこに落とし穴がある。過去現在未来は、《事物そのものではない》。わたしが彼の健康にいまのような考えかたをしているとき、考えているわたし自身、彼と同じようにやはり時間的な存在なのだということを忘れると落とし穴に落ち込む。「彼は現在健康だ」と考えるときの「現在」は、彼そのものの持っている時間的な性質ではなくて、そう考えているわたし(話し手)との間に、「現在」とよばれる《関係が成立している》ことなのである。「過去には病気がちだった」と考えるときの「過去」も、話し手との間に「過去」とよばれる関係が成立していることなのである。けれども、話し手から考えて「過去」というとき、話し手から考えて「現在」の関係にある彼にとっても、やはり同じように「過去」になる。この二つを混同すると、過去現在未来は話し手と無関係に対象そのものの時間的性質を意味するものだという誤解がうまれて、固定し絶対化するまちがいにおちこむのである。
 過去現在未来は、属性ではなく《時間的存在である二者の間(二つのありかたの間)の相対的な関係をさす言葉》にほかならない。これは客観的な関係であって主観的なものではない。ただ、言語表現にあたっては、これを観念的に設定するが、観念的な存在だという結論を出してはならない。


【感想】
 ここでは、「時の表現と現実の時間とのくいちがい」について述べられている。過去や未来を表現するときに助動詞を使うが、「宇宙は永遠に存在する」「明朝行きます」などのように、助動詞を使わない(現在形で表現する)場合がある。それはなぜかという問題について、専門家による様々な検討・議論が行われてきたが、それについての著者の見解は以下の通りである。
 そもそも過去現在未来は、事物そのものの時間的性質ではなく、話し手と事物の間にある《関係が成立している》ということである。「彼は現在健康だが、過去には病気がちだった」というとき、時間的存在である彼と、同じく時間的存在であるわたしの間には、「現在」「過去」「未来」という《関係》が成立している。「過去」の時点では、(「現在」)病気がちである彼をとらえているわたしがおり、時間が経過して(「未来」となった)「現在」の時点では、健康を回復した彼の姿をわたしはとらえている。同時に、病気がちだった「過去」の彼の姿も浮かんでいる。
 だから、過去現在未来は、属性ではなく《時間的存在である二者の間(二つのありかたの間)の相対的な関係をさす言葉》にほかならない。
 細江逸記氏は〈時制は主観的なもので「時の区別とは何の関係もない」〉と結論したが、
「これは客観的な関係であって主観的なものではない。ただ、言語表現にあたっては、これを観念的に設定するが、観念的な存在だという結論を出してはならない」と、唯物論的に批判しているところがたいそうおもしろかった。(2018.2.16)