梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・28

2 助動詞の役割
a 助動詞の認識構造
【要約】
 わたしたちは、生活の必要から、直接与えられていない視野のかなたの世界をとりあげたり、過去の世界や未来の世界について考えたりしている。観念的に二重化し、あるいは二重化した世界からさらに二重化するといった入子型の世界の中を、わたしたちは行ったり帰ったりしている。昨日、わたしが「雨がふる」という予想を立てたのに、今朝はふらなかったとすれば、現在のわたしは、
● 雨がふら・・「なくあっ」(予想の否定)・・た。(過去)
 というかたちで、予想が否定されたという過去の事実を回想する。言語に表現すれば簡単な、いくつかの語のつながりのうしろに、実は三重の世界と、その世界の中へ観念的に行ったり帰ったりする主体的な動きとがかくれている。このことをよく検討して、はじめて助動詞といわれる種類の語の特徴を理解することができる。  
《注》「三重の世界」①雨の中を傘をさして歩く自分 ②晴れている空を見上げている自分 ③その二つを想起している現実の自分
 助動詞は、動詞あるいは形容詞に接続して、書い・・(た)、美しく・・(ない)のように、かたちの上では密接につながっている。動詞あるいは形容詞の語尾が複雑に変化したもののように見える。山田孝雄氏はこれを「複語尾」と名づけた。見かけの活用のかたちにとらわれることなく、この語の接続ということのうしろに、どのような認識構造がかくれているかを調べてみなければならない。ヨーロッパ語の動詞の語尾変化と、日本語の助動詞の使いかたとは似ている。だから、日本語の助動詞の使いかたを理解することは、ヨーロッパ語の動詞の語尾変化を理解するカギにもなるだろう。
 まず、肯定判断の表現と否定判断の表現とを例にとって調べてみる。
● 指定の助動詞(ある)
・ある(基本の形) あら(未然形) あり(連用形) ある(終止形) ある(連体形)あれ(仮定形) あれ(命令形)
● 指定の助動詞(だ)
・だ(基本の形) で(未然形) で(連用形) だ(終止形) な(連体形) 〇(仮定形) 〇(命令形)
 指定の助動詞というのは、話し手の単純な肯定判断の表現だが、二つの系列がある。「ある」の系列は、動詞の「ある」から移行したもので、「だ」は「豊年(じゃ)、万作(じゃ)」に使われている「じゃ」から変化したものとも云われている。この二系列を重ねて、● これは本(である)。
 という使いかたは、強い肯定判断であると考えてよいだろう。 
(a)《本がある》(■)。
(b)《本があり》(ます)。
(c)《本》(で)(ある)。
(d)《本》(で)(あり)(ます)。
(e)《本》(です)。
(f)《面白い》(■)→《「面白く」(あっ)》(た)。
(g)《面白い》(■)→《面白い》(です)。
 敬意の助動詞にも、「ます」と「です」の二系列があり、それぞれ活用するが、「ます」は「あり」に付加して「あります」という形をとるのに対して、「です」は「だ」に代えて使われる。これは、「あり」が動詞として使われたときの形式がそのまま移されたもので、動詞として使う場合の敬意の助動詞は(b)のかたちをとることになるから、「あり」を助動詞とするときにこの形式をそのまま移して(d)のかたちをとる習慣になったのである。このような重加はわずらわしいので、現在は多くの場合(e)の形式をとる。
 「だ」系列の仮定形として「なら」をあげるのが普通だが、これは本来「だ」の系列ではなく、「に」「あり」からつづまった「なり」の系列で、口語でこの形式をとるのは仮定文の接続助詞として使う場合に限られている。従って、これは助動詞の性格をふくんだ接続助詞と見るのが適当である。
 指定の助動詞の重要な特徴は、単純な肯定判断であるために省略される場合が少なくないこと、敬意の助動詞に代えて使われることの二点である。普通は省略されても、あとにほかの助動詞が接続されるときは省略なしに使われ(f)、敬意の助動詞のかたちをとって表面化すること(g)を心得ておく必要がある。
 否定判断は肯定判断に対応するものだから、肯定判断のかわりに否定判断の表現を入れかえたものが話し手の認識構造だと考えがちだが、事実はちがう。否定するには《否定する対象が必要》である。否定の前に対象が与えられていることを考えなければならない。これは予想というかたちで観念的に与えられたり、過去の現実というかたちで前もって認識されたりしている。現実は、植木鉢の花はまだつぼみのままだとして、これをそのままの対象としてとりあげるかぎり、何らの否定判断もうまれない。これに対する話し手が、「花が咲く」という観念的な対象を設定し予想するとき、はじめて「花がさかぬ」という否定判断がうまれる。同じように、過去の現実には立派な花があったことを知っている話し手が現実の対象はそれとちがっていることを認識するときはじめて「花が見えない」という否定判断がうまれる。従って、これらの否定にあたっては、話し手はまず観念的な世界へ移行して表現し、そこから現実へもどって「ぬ」「ん」「ない」と観念的な世界の対象を否定する。
 このように、否定の助動詞は、それ自体話し手の判断の表現で、否定されるのはその上に表現された観念的な世界の対象のありかたである。否定判断の表現にあたって移行した世界そのものを否定しているわけではない。移行した世界の《話し手の立場やこの否定判断そのものは話し手が肯定している》のである。だから、
● 働けど働けどわがくらし楽になら(ずあり)。
 という啄木は、くらしが楽になるという観念的な希望の状態がきびしい現実によって否定されることを「ず」で表現し、この否定判断をする話し手の立場を肯定してその下に「あり」という表現を加えたわけである。この「あり」を敬意の表現に代えると、
● 楽になら(んです)。
 になる。


【感想】
ここでは、助動詞の「認識構造」について述べられている。私たちの認識は、直接目の前にある対象を問題にするだけでなく、過去や未来、空想の世界を行き来する。要するに「想像」(非現実)の世界があるということだが、そうした内容を表現するために助動詞があるということであろう。
 著者は、肯定判断の表現と否定判断の表現を例に挙げて説明している。
 肯定判断を表す「指定の助動詞」には、動詞から移行した「ある」と、「じゃ」が変化した「だ」の系列があるということである。敬意の助動詞にも「ます」と「です」の二系列があり、「ます」は「あり」に付加し、「です」は「だ」に代えて使われる。「だ」の活用は、普通「で・で・だ・なら・〇」と考えられているが、「なら」は「に・あり」がつづまった「なり」の系列であり、接続助詞と見るのが適当であるということである。
 また否定判断の認識構造は、肯定判断のかわりに否定判断の表現を入れかえたものではない。否定するには《否定する対象が必要である》。否定の前に対象が与えられていことを考えなければならない。その対象は「予想」「過去の現実」として前もって認識されている。「花が咲かぬ」という否定判断は「花が咲く」という予想が前もってあるから生まれる。否定の助動詞は、それ自体話し手の判断の表現で、否定されるのは観念的な世界の対象のありかたであり、話し手の立場や否定判断そのものは話し手が肯定しているという点が、たいそうユニークでおもしろかった。
 なるほど、石川啄木の「働けど働けどわがくらし楽にならざ(ず、あ)り」は、楽にならない現実を、否定判断の「ず」で表現し、その判断をする自分の立場を「あり」で肯定しているという認識構造はきわめて複雑だが、よくわかった。
 要するに、否定するためには、その前提に「予想」や「経験」の肯定があり、話し手はその否定を肯定しているという(弁証法的?)「認識構造」を著者は説明しているのだろう。(2018.2.15)