梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・23

b 格助詞とその相互の関係
【要約】
○「が」と「は」の関係
(a) 鳥(が)空を飛んでいる。→《現象的なつながり》
(b) 鳥(は)空を飛ぶ。→《必然的な本質的な関係》
(c) お茶(が)こぼれる。→《偶然的なつながり》
(d) お茶(は)机の上へおいてください。→《偶然が継続→固定的なつながり》
(e) お茶(は)タンニンをふくんでいる。→《必然的な本質的な関係》
(f) お父さん(が)ころぶ。→《偶然的なつながり》
(g) お父さん(は)いつもころぶ。→《偶然が継続→固定的なつながり》
(h) 雪のふる夜(は)たのしいペチカ。→《偶然が継続→固定的なつながり》
(i) 入学試験(は)毎年激しい競争だ。→《偶然が継続→固定的なつながり》
 という習慣になっている。「が」にはちがった使いかたがある。
○「が」と「の」の関係
 ● 我(が)くらし→私(の)くらし 君(が)おもかげ→君(の)おもかげ 梅(が)枝→梅(の)枝  *文語では二つの物事を所属や所在などの関係でとらえたときに使う。口語では単純なつながりとして「の」で表現するのが普通である。
 電車(の)車掌  遠く(の)親類  万人待望(の)すばらしい新製品  パリ(の)屋根(の)下  そ(の)本棚(の)一番上(の)段(の)右(の)はじ(の)黒い表紙(の)本。
○「は」と「の」の関係
 火(は)あたたかい。 火(の)あたたかさ。
 人(は)死ぬ。 人(の)死。
 属性として表現する場合は「は」、その属性を普遍的な存在として実体的にとらえるときは、二つの事物のつながりとして「の」が使われる。  
○「と」の使いかた
(j) 父(と)母(と)のけんか。→《現実に並んいる存在》
(k) みかん(と)餅菓子(と)どれを買おうか。→《頭の中で並べてとりあげる時》(l) 彼(と)ねたまえ。→《聞き手と第三者が枕を並べて寝るという意識》
(m) 君と行こう。→《話し手と聞き手が肩を並べて歩くという意識》 
● 先生がいけない(と)云った。  鳩山一郎(と)いう首相
 先生と先生の言葉とを並べて扱い、首相と固有名詞を並べて扱うやりかたである。並べることから、むすびつけてとりあげるという意識で、
● 君のやったこと(と)は知らなかった。 それ(と)わかったらおどろくぞ。
 という使いかたになり、さらに接続助詞といわれるものに移行していく。
○「に」
● 家(に)居る。 机の上(に)ある。 来週(に)休日がある。
 空間的時間的位置づけの意識が「に」で表現される。これは固定したつながりとしての意識だが、運動し変化したことを意識して位置づける場合もある。
(n) 父(と)めぐりあう。→《めぐりあった結果としての二人という観点》
(o) 父(に)めぐりあう。→《二人が並んでいない状態から並ぶ状態に移行する過程》 この移行による位置づけという観点から「に」が使われる。
(p) 私は立派な人間(に)なりたい。→《属性の移行》
(q) この本を彼(に)おくろう。→《所属の移行》
(r) 下(に)居ろう。《場所的移行》
○「に」と「へ」の関係
(s) 京都(に)行く。→《移行の過程をふくんだ位置づけの意識》
(t) 京都(へ)行く。→《移行の方向についての意識》
● どうかこちら(へ)。 むこう(へ)向けておけ。
 は、ハッキリした方向についての意識だが、
(s) 京都(に)行く。 友(に)贈る。
(t) 京都(へ)行く。 友(へ)贈る。
 の場合は、移行としての共通点の意識が強く出て、同じように使われる。
○「を」の使いかた
 二つの事物が運動と変化の中にあるとき、運動する側の立場に立ってつながりの変化をとらえるとき、
(u) 家(を)見つける 事件(を)分析する。→《近づく場合》
(v) 家(を)去る。 親(を)捨てる。→《遠ざかる場合》
(w) 試験(を)パスする。 困難(を)突破する。→《両者の統一》
 これらと反対に、静止した側の立場に立ってつながりの変化をとらえると、
● 水(を)あびる。 責任(を)負う。→《近づく場合》
● 使い(を)走らす。 豆(を)まく。→《遠ざかる場合》
● 電車(を)見おくる。→《統一の場合》
● 馬(を)乗り回す。→《両者とも運動している場合》
○「から」 
● それ(から)の話をきこう。 馬(から)下りる。 私(から)話そう。 ここ(から)上へはのぼれない。
 いずれも、出発点、起点としての意識である。


【感想】
 一般に、格助詞は〈主に体言に付いて、文節どうしの関係(格)を示す働きをする助詞である〉、格助詞の働きとして、〈① 主語であることを示す…「が・の」、② 連体修飾語であることを示す…「の」、③ 連用修飾語であることを示す…「を・に・へ・と・から・より・で」、④ 並立の関係を示す …「の・に・と・や」、⑤ 体言の代用になる …「の」〉のように、文節と文節の関係を、「形式的」に説明するだけで終わっているが、著者はその「関係」を、認識構造に基づいて詳しく述べている点がユニークで大いに参考になった。
 要するに、
①「が」は、現象的つながり、偶然的なつながりを表す場合に使い、「は」は必然的な本質的なつながりや、偶然的なつながりが固定した場合に使う。
②「が」は、(文語では)二つの物事を所属や所在などの関係でとらえたときに使う。口語では「が」の代わりに「の」を使う。 
③「は」は、事物の属性(必然的な本質的なつながり)を表す場合に使うが、「の」は
事物と属性のつながりを表す場合に使う。
④「と」は、現実に並んいる存在を表すときに使うが、《頭の中で並べてとりあげる時》《聞き手と第三者並ぶという意識》の場合、《話し手と聞き手が並ぶという意識》の場合があり、さらには、並べることから、結びつけるという意識で使うことになり接続助詞に移行していく。 
⑤「に」は、時間的空間的位置づけの意識を表す。これは固定したつながりとしての意識だが、運動し変化したことを意識して位置づける場合もある。それは移行の意識として表され、属性の移行、所属の移行、場所の移行などがある。「に」は移行の過程の意識を表すが、「へ」は、移行の方向の意識を表す。
⑥「を」は、二つの事物が運動と変化の中にある時、運動する側の立場に立ってつながりをとらえる場合と、静止した側の立場に立ってつながりをとらえる時に使う。いずれも、「近づく場合「遠ざかる場合」「統一の場合」がある。「両者とも運動している場合」もある。
⑦「から」は、出発点、起点の意識を表す。
 ということである。
ただ一点、著者は格助詞「で」をとりあげていなかったが、それはなぜだろうか。以後を読み進めばわかるかもしれない。(2018.2.9)