梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・24

C 副助詞について
【要約】
 助詞による表現のうしろには、客観的なつながりと、そのとらえかたがかくれている。そのつながりも、とらえかたも、客観的な時間・空間・質・量と無関係ではない。副詞は、客観的な事物のありかたを抽象的にとりあげて表現するが、助詞の中にも副詞と似たとりあげかたをし、格助詞と組み合わせて複雑なつながりを表現するものがある。これが副助詞である。
〇「まで」
● 大臣(に)《まで》出世した。《継続あるいは発展の範囲の意識》
〇「ずつ」
● 三つ《ずつ》くばる。《継続的にはかられる状態の意識》
〇「くらい」:対象の分量・程度を表現する名詞が、質的な評価の表現に移行した副助詞
● そんなこと《ぐらい》(に)おどろかない。
● 社員(に)《ぐらい》なれるとも。
〇「ばかり」
● 一日中泣いて《ばかり》いた。《限定の意識》
〇「など」
● お茶《など》(を)のんでいる。《例としてとりあげるという意識》 
〇「か」
● どれ《か》(に)決めよう。《ハッキリ区別できない、決められないという意識》
〇「やら」
● いつの間(に)《やら》日がくれた。《「か」と似ているが、状態についての意識》
〇「きり」
● これ《きり》であとがない。《限界点の意識》
〇「だけ」
● 私《だけ》(の)問題だ。《限界内の状態についての意識→程度の表現》


【感想】
 一般に、副助詞が文に付け加える意味は、強調、類推、限定、添加、程度、並立、例示などと説明されているが、ここでも著者は、客観的な事物のありかた(つながり)を、どのように「とらえるか」という《認識の構造》(意識)を表すものとして副助詞を位置付けている点が、たいそうユニークで大いに参考になった。 
 同じ「ぐらい」という語でも、《(酒を)三升ぐらいのみます》の「ぐらい」は名詞であり、《酒ぐらいはのませろ》の「ぐらい」は副助詞であるという違いがよくわかった。
(2018.2.10)