梨野礫・著作集

古稀を過ぎた老人が、これまでに綴った拙い文章の数々です。お読み捨てください。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ著・季節社・1971年)通読・21

b いわゆる連体詞について
【要約】
 いわゆる連体詞には以下のようなものがある。
(a) (ある)日の午後のことだ。  
(b) あの人は(いわゆる)影べんけいだ。
(c) (さる)ところによい店があるという。
(d) (とんだ)ところへ北村大膳。
*動詞の連体形をそのまま使う場合
(e) きたる三日はひなまつり。
(f) ゆく春をおしむ。
(g) なく音にききほれている。
 (a)は、一日というものを発生消滅においてとらえ、それが何回も繰り返されていて、その中の一つをえらぶという考えに立っている。(b)は名をつけるという行動を扱っている。(c)は異なった場所のうちの一つを選ぶ。(d)はありかたを変化において異常なありかたをとった場合としてとらえている。(e)は未来が動いて近寄ってくると考えている。(f)は季節が動くという考え、(g)は鳥の行動である。このうしろには、副詞の場合と同じように、話し手の観念的な運動がかくれていることもたしかである。「ある」は時間的にさかのぼってえらびだし、「いわゆる」は他人の名づけた例についてふりかえり、「きたる」は時間的に未来へゆくし、「ゆく」「なく」にも対象についてともに動いていく場合がある。副詞は対象が運動していても時間的空間的に変わらない面を抽象して表現するが、連体詞は対象自体が運動していなくても発生消滅するものを多様に変化するものとして表現している点で区別される。この差別があるからこそ、副詞には形容詞の連用形を代用し、連体詞には動詞の連体形を代用するといえるだろう。
 言語に関する表現上の約束がうまれるとき、はじめは対象の構造を意識して区別を立てても、関係が固定的な場合にはその区別が薄くなっていくものである。日本語でも、表現が密着し、すすんではちがった内容の表現を持つものに移っていく。
● 兄と弟・・・・・・・・二人いる。
兄弟(あにおとうと)・・二人いる。
兄弟(きょうだい)・・・一人でもこの関係をもつ人間に使う。
● 「白墨」・・意識が機能の面におかれるようになり、「白」は意識から消え去っていく。→赤い白墨がある。
 これが熟語の特徴である。
● 稲をこく→稲こき(道具) 湯をのむ→湯のみ(道具) 魚をつる→魚つり(人間) 動詞の連体詞的な表現から熟語がつくられるときは、連用形にかわる。
● よむ物がほしい→よみ物 釣る舟をさがす→釣り舟 ある金をよこせ→あり金 


【感想】
 ここでは、副詞と連体詞の「共通点」と「相違点」が述べられている。共通点は「話し手の観念的な運動がかくれている」ということであり、「相違点」は、「副詞は対象が運動していても時間的空間的に変わらない面を抽象して表現するが」、連体詞は「対象自体が運動していなくても発生消滅するものを多様に変化するものとして表現している」という点である。その違いがあるから、副詞は形容詞の連用形の代わりに使われることがあり、連体詞は動詞の連体形の代わりに使われることがある。
 著者はそのあとで、「言語に関する表現上の約束がうまれるとき、はじめは対象の構造を意識して区別を立てても、関係が固定的な場合にはその区別が薄くなっていくものである。日本語でも、表現が密着し、すすんではちがった内容の表現を持つものに移っていく」と述べ、熟語の例を列挙しているのはなぜだろうか。副詞も連体詞も、はじめは形容詞の連用形、あるいは動詞の連体形として(意識して)使われてが、しだいに固定し「活用のない」語として独立したということであろうか。
 「私(ワタシ)的には」、形容詞「大きい」「小さい」「おかしい」が連体詞「大きな」「小さな」「おかしな」に転じる契機(認識構造)についても知りたかったが、残念ながらそれに関する記述は見られなかった。(2018.1.31)